3月20日。黒田官兵衛 「天下に最も多きは人なり。最も少なきは人なり」

黒田 官兵衛(くろだ かんべえ、/黒田 孝高(くろだ よしたか)、天文15年11月29日(1546年12月22日)(グレゴリオ暦1547年1月1日)- 慶長9年3月20日(1604年4月19日))

織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉の謀将として活躍した黒田官兵衛は、豊前の6郡12万2千石をもらう。京都、築城、中津、上毛、下毛、宇佐である。このとき、息子の長政が宇都宮一族を陰惨な形で謀殺した。官兵衛は12万石の大名として1587年に豊前中津城主となった。官兵衛・如水の子の長政は筑前50万石を領し福岡の殿様になった。4月19日は如水の命日。

如水とは「身は褒貶毀誉の間にありといえども心は水の如く清し」からとっている。

官兵衛は大坂と中津をつなぐリレー式の早船という通信システムで上方の情報をつかむ仕組みを持っていた。この早船で瀬戸内海を3日で情報は届いた。関ヶ原の戦いも始まりと結果をいちはやく知って対処できた。官兵衛は生涯50数度の戦いで一度も破れたことがないのは、情報収集の天才だったことも大きな要因である。

「戦わずして敵を降伏させる」「人は殺すよりも使え」

戦国の世は生き残りには人材が勝負だった。世の中に人は多い。しかし人材は数えるほどしかいない。この言葉には人を見る抜群の目ききであった官兵衛の慨嘆がうかがえる。ひるがえって今の時代をみると、同じことがいえる。人はいるが、人材は少ない。

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