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「名言との対話」9月12日。塩屋賢一「犬を道楽のために訓練するのではなく、人の役に立てるために訓練したい」

塩屋 賢一(しおや けんいち、1921年12月1日 - 2010年9月12日)は、日本の実業家。犬の訓練師。財団法人アイメイト協会創設者、理事長を務める。

塩屋賢一は「盲導犬の父」と呼ばれる。目の不自由な人に役立つ犬をつくり出す仕事が盲導犬をつくる仕事である。

塩屋が出場していた警察犬訓練試験競技会の審査委員長は相馬安雄。芸術家、文化人が集まるサロンを開いていた東京・新宿にあるレストラン『中村屋』の二代目社長だ。相馬安雄の勧めで、塩屋は犬の訓練士となるが、盲導犬をつくり出して社会に貢献したいと考えるようになり、青年・塩屋は愛犬学校を設立し1948年より盲導犬の研究を始めた。

1956年、18歳で突然失明した河相洌外交官・河相達夫の子)から盲導犬をつくる依頼を受けた塩屋賢一は1957年夏、国産第1号の盲導犬チャンピイ』を完成させた。これが日本における、実質的な盲導犬の歴史の始まりとなった。塩屋は起居を共にし、スキンシップをとり、人の往来などに慣れさせるため、毎日一緒に街を歩く。訓練を始めてから1年3ヶ月でチャンピイを河相冽に渡す。塩屋の河相への歩行指導も3週間近くにわたって毎日行なわれた。1957年8月に、河相は一人で難路をチャンピイと一緒に歩くことができた。日本で初めての盲導犬の誕生である。当時大学生だった河相冽は盲学校の教師となる。学校でもチャンピイと一緒だった。

1967年『日本盲導犬協会』を設立。1969年には東京都が盲導犬育成事業を開始。1971年に新たに(財)東京盲導犬協会を設立。その後、東京都に続いて多くの自治体が盲導犬育成事業に乗り出し、その大半を東京盲導犬協会が受託。1972年には『全国盲導犬協会連合会』が発足した。

1977年、国鉄への自由乗車、1978年、バスの自由乗車が実現。1980年には、航空会社や私鉄もこれに続く。後には、それまで飛行機やバスなどで義務化されていた盲導犬の口輪装着義務も撤廃。1981年にはレストランや喫茶店、旅館に対しても入店拒否などをしないよう、対応協力の指導が国からなされた。1989年には『アイメイト協会』へと名称を変更した。

盲導犬は、今では光を失った人の目として欠かせない存在となっている。レストランでは、好物の肉を前にしても決して動かないし、コンサートホールでは、2時間以上の演奏中、静かに伏せて待ち続けることができる。

1982年、日本の文化活動に著しく貢献した人物・並びにグループに対して贈呈される 吉川英治文化賞を受賞する。『障害者と一体でやろう。盲人の自立をお手伝いするだけだ』という理念を掲げた塩屋賢一は「盲導犬の父」と呼ばれるようになった。

この人の、犬を「人の役に立てるために訓練したい」という高い志と、苦難の多い道のりを切り拓き続けた実行力、それによって世の中が変わった。現在では、盲導犬は900頭が存在し、盲導犬使用者がその便益を受けている姿を眺めると、一人の人間の力というものの偉大さを思わずにはいられない。

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