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「名言との対話」 5月11日。有光教一「「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である」

有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 - 2011年5月11日)は、日本の考古学者。専攻は朝鮮考古学。

大分県中津中学を卒業後、福岡高校を経て京都帝国大学文学部史学科入学し、考古学を専攻する。1931年東方文化研究所に入り、朝鮮総督府の嘱託として朝鮮半島の古墳を発掘調査に従事する。1941年から終戦まで朝鮮総督府博物館主任をつとめる。1957年京大教授。1980年奈良県立橿原考古学研究所長。1989年高麗美術館研究所所長となり、亡くなるまでの22年間にわたり、所長をつとめた。享年103のセンテナリアンである。

韓国初の国立博物館の開館や、朝鮮人の手による調査である慶州の発掘調査を行って大きな功績があったが、本人のその後の述懐によれば、「朝鮮考古学史上、画期的なこの発掘に調査員として参加できたことを誇りに思うが、私自身の未熟なため碌な指導ができなかったことに忸怩たるものがある。また、報告書作りに必要な作業を放り出して退去せざるをえなかったことは、考古学徒として不本意であり心残りであった。しかし発掘の実地指導が終われば、日本人である私には朝鮮に留まる理由がなくなったのである」と、博多港に引き揚げる。

その報告書は実に90歳を超えてから発刊している。また、単著では『朝鮮磨製石剣の研究』(京都大学文学部、1959年)、『朝鮮櫛目文土器の研究』(京都大学文学部、1962年)などがあり、また多数の共著や論文がある。

有光は様々な文化財の保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された「博物館人」あった。日韓の難しい時代をの中で、両国の人々からの信頼と敬愛を保ち続けたその生き方は、大きな価値がある。朝鮮考古学のパイオニア、朝鮮考古学の祖と呼ばれるのも宣なるかな。

この人は103歳で亡くなるまで現役であった。年譜をみると、83歳で『有光教一著作集』全3冊を刊行し、99歳では『有光教一先生白寿記念叢」が高麗美術館から刊行されている。そして100歳では、「季刊三千里」の連載した文章をもとに、自伝『朝鮮考古学七十五年』を刊行していることに驚かざるを得ない。私の郷里の中津中学で学んだことに親しみをおぼえて調べてみたのだが、誠実な生き方が参考になった。

「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である。この言葉はどのように解すればいいのだろうか。考古学の意味は、古の歴史から学び、それを現代に活かすためだろう。考古学は、実は考現学なのだ。そう理解しよう。


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