9月20日。徳間康快「二流に耐えることは、一流になるより難しい」

徳間 康快(とくま やすよし、1921年10月25日 - 2000年9月20日)は、日本の実業家、映画プロデューサー。

読売新聞社に入社、社会部記者となる。敗戦直後の読売争議の中心メンバーとなり、1946年退社、東京民報、日東新聞を経て、1952年新光印刷工業社長、1954年アサヒ芸能出版社社長。1961年徳間書店を設立し社長。1970年徳間音楽工業社長、1974年東京タイムズ社長となり、音楽業界、マスコミ業界に進出。1974年には倒産した大映の社長を引き受け、再建に尽力。活字、音楽、映像の各分野で活躍し徳間グループを率いた。中国との文化交流にも熱心で、1988年日中合作映画「敦煌」を完成させた。1991年東京国際映画祭のゼネラル・プロデューサーを務める。また、宮崎駿監督のアニメ作品「風の谷のナウシカ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「となりのトトロ」「もののけ姫」などのゼネラルプロデューサーとしても知られた。2000年石原慎太郎東京都知事に請われ、東京都写真美術館館長に就任した。

佐高信『飲水思想 メディアの仕掛け人、徳間康快』(金曜日)を読んだ。逸話の多い人であり、それらを紹介するよりも、この本の中から本人の言葉と、他の人の言葉を書くことで、この怪人を描くことにしたい。

「オレの場合は濁濁併せ呑むんだね」「重い荷物をせおって、坂道をのぼるんだ」「志、雲より高く」「中国から儲けちゃ、いかん。日本人はさんざん悪いことをしたんだから」「雑誌というのはな、生き物なんだ」「新聞は一報はいらない。起こったことのこれからの見通し、分析、解説なんだ」「二流に耐えることは、一流になるより難しい」「イヤなことはオレがやる」「年のことを話したり、年をとったなんて考えたらだめだよ。わたしなんか、今も青年のつもりなんだ」「人間的魅力だ。これさえあれば、あらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」、、、、。

日常生活。夜は9時に帰宅し10時就寝。午前3時起床。顔を直し、1時間散歩。朝5時から、手帳に書いたメモを日記帳に写す。その内容を何度も読み返す。会う人の発言集をつくり、会う時に活用する。こういうことで人心をつかんだ。日記には本当のことを書いていたようで、死んだらすぐに焼くように家族には言っていたそうだ。

関わりのあった人たちの徳間康快像はいかなるものであったか。

憎めない豪快さと明るさ(高倉健)。人脈をひけらかす人じゃなかった(三好徹)。クソ度胸のある快男児(梶山季之)。一見豪快、、、実はやっぱり豪快な男(田辺茂一)。ブルドーザーに乗ってやってきた織田信長(上野尚之)。心はさびしき狩人(開高健)。最後の映画博徒、アサヒ芸能と宮崎アニメを両立させた男、アウトローにしてインテリ、大ぼら吹きにして繊細な気配り、当代随一の先見性(李鳳宇)。、、、。

そして著書である「辛口評論家」の佐高信は、絶対値の大きい男だ、その値にプラスの符号をつけるか、マイナスの符号をつけるかで評価は分かれると総括している。この人については賛否があり、悪いうわさも多いのだが、やはり、人を引き付けてやまない魅力的な人物であったことは間違いない。因みに、佐高は評論家は辛口なのが当たり前で、甘口評論家などというものは存在しないと語っているのを聞いたことがある。

佐高は回転する独楽のよなタ徳間康快の芯に寂しさがあったと「おわりに」に書いている。この本の第1節のタイトル「オレはだまされた」がその寂しさの源なのだろうか。その相手は今なおメディ界に君臨する帝王であることを佐高は示唆している。その帝王にだまされて二流に耐え続けながら様々な事業に挑戦し続けてきた乱世の梟雄であった自分、英雄になれなかった自分への悔悟もあったのかも知れない。徳間康快の師匠は読売葬儀の主役だった鈴木東民であり、その師匠は大正デモクラシーの旗手・吉野作造だった。その流れを汲んでいる徳間にはクォリティ(質)を志向する高い志があったが、稼ぎ頭だった「アサヒ芸能」のクォンティティ(部数)を無視できなかったメディアでの実績についても苦悩があった。それらが寂しさの中身なのだろうか。

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