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「名言との対話」12月27日。鈴木ひでる「これからご恩返しをしなくてはならない、それは勉強させてあげることだ」

鈴木ひでる(1888年11月6日-1944年12月27日)は 大正-昭和時代前期の化学者。

愛知県出身。1888年生。日本女子大学予科で物理、化学、数学を専攻。卒業後は長井長義教授(日本初の薬学博士。日本薬学の祖)の助手となる。本業の傍ら、独学で研究を進める。夜間にドイツ語、生薬学を学び、薬剤師試験に合格。

東京帝大で研究する機会を得る。1937年、アジア原産の小低木から発見した揮発性有機老いる「ペルレン」の5年の研究により、49歳で日本人女性初の薬学博士となる。56歳で急死。

日本女子大の創設に功績のあった広岡浅子1903年の第1回卒業生に「あなたがたが失敗すれば学校全体の失敗です。それは日本女子教育の失敗であり、国家の進歩・発達に関わる。あなた方の責任は重大です」と語っている。

第7回卒業生の鈴木ひでるについて、学長経験者の蟻川芳子は「学内の香雪化学館は不夜城と呼ばれ、夜中まで実験が続いていたそうです。鈴木先生は、いつも髪をひっつめ割烹着姿、浅黒い肌で石炭女子というニックネームもあったとか」と語っている。そして口癖は「勉強しなさい」だったと回想している。

女性初の帝大生の丹下ウメは40歳で東北帝大理科大学生。ジャーナリストの小橋三四は『婦人週報』を創刊。(以上、「女性自身」)

東大では女子学生が誕生する以前に、研究を続けた女性科学者がいたとして、3人の「リケジョ」を紹介してる。鈴木ひでるもはその一人だ。

保井コノは1927年にわが国の女性初の博士となり、東京女子師範学校お茶の水女子大学)教授。鈴木ひでるは東京女子大と東大を往復しながら研究を続け、女性初の薬学博士となった。辻村みちよは日本初の農学博士。北大、東大、理研を経て、後にお茶の水女子大学教授。(以上、東京大学男女共同参画室)

鈴木ひでるを追っていて「女性初」というキーワードがでてきた。

女性初の文化勲章上村松園。女性初の科学論文(生物学)の津田梅子。女性初の日本物理学会会長。女性初の「ホトトギス」同人の杉田久女。日本初の女医の荻野吟子。女性初の厚生大臣・中山マサ。女性初の議員の柄沢とし子。女性初の内閣官房長官森山真弓。大手出版社の女性初の編集長・編集局長(「婦人公論」)の三枝佐枝子。女性初の文化功労者・小山やす子(書家)。女性初の新聞記者・羽仁説子。女性初の衆議院議長・政党党首の土井たか子。女性初の国民栄誉賞美空ひばり。女性初の宇宙飛行士・向井千秋。こういった女性たちの列の最初の方に鈴木ひでるは並んでいるのだ。

「女性初の」という形容詞で語られる人たちは、それぞれの分野で男性社会の扉をこじあけた先駆者である。広岡浅子のいうように重大な責任を自覚して奮闘した、「志の人」だ。理科系の分野で名をあげた鈴木ひでるの生涯をあらわす言葉は「勉強」であった。数々の迫害や妬みに耐えながら実績をあげてのであろう。頭が下がる思いがする。

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