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9月21日。小此木啓吾「モラトリアム人間」

小此木 啓吾(おこのぎ けいご、1930年1月31日 - 2003年9月21日)は、日本の医学者、精神科医、精神分析家。

1954年慶應義塾大学医学部を卒業。1976年同大学助教授、1990年教授に就任。日本人で初めてウィーン精神分析研究所に留学し、日本の精神分析学の草分けといわれる古沢平作に師事。精神分析医として治療にあたる一方で、ジグムント・フロイトから現代までの精神分析学を幅広く研究した。同時に,精神分析の日本への定着にも尽力、新聞、雑誌、書籍などで精神分析学を土台とした現代社会論を展開した。1977年には,豊かな社会に育ち、社会人としての当事者意識がなく、大人になりたがらない当時の若者を「モラトリアム人間」と規定した論文を雑誌『中央公論』に発表。翌 1978年に出版した『モラトリアム人間の時代』はベストセラーとなった。

数百人におよぶ弟子の一人である「みゆきクリニック」(小此木啓吾が初代院長)の医師が人柄を以下の様に語っている。

フロイトに学んだ恩師・古澤平作の「阿闍生(アジャセイ)コンプレックス」を発展させた。出産に対する母親の恐怖への怨みが残るが最後は許し合うというものだ。小此木の著作は数百冊あり、「モラトリアム人間の時代」以外にも、「エロス的人間」「自己愛人間」は一般の話題になった。全国各地での講演、数百冊におよぶ膨大な著作、医師としての治療行為、臨床心理士や医師の教育など、超人的な体力を持つ活動家だった。本人は「自分の一番の業績は弟子をたくさん育てたことだ」と語っていたという。

フロイトは喉頭がんの手術を10数回しても、もうろうとなるより苦痛の中で思考するとして痛みの緩和剤を使わなかった。小此木も下咽頭に腫瘍ができた。その闘病中にも3冊の本を出版している。愚痴をこぼさず、毅然と立ち向かった。まだまだ取り組みたいプランは多かった。志半ばの生涯であった。

青年が大学を留年しつづけ、その後も定職につかない傾向の増加を分析し、彼らを人生の選択をさけていつまでも可能性を保ったまま、大人になることを拒否して猶予期間にとどまる「モラトリアム人間」と呼んだ。1978年の『モラトリアム人間の時代』(中央公論新社)は、時代の病巣を衝いた言葉として大きな話題となった。私もこの本を読んで膝を打ったことがある。このモラトリアム意識が若者だけでなく、当事者意識が薄くなり、上司に判断をゆだねていく傾向にが広がって、しだいに高い年齢層にしみわたりつつある状況に危機を覚えていた。一つの概念が、時代の中核を衝くことがある。小此木啓吾の「モラトリアム人間」がそれである。

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