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「名言との対話」2月24日。西山太吉「結論は全部、国民に正確に伝達しなければ、民主主義は崩壊する」

西山 太吉(にしやま たきち、1931年昭和6年〉9月10日- 2023年令和5年〉2月24日)は、日本ジャーナリスト政治活動家西山事件で知られる。享年91。

山口市出身。慶應義塾大学法学部、修士課程を終了後、毎日新聞社に入社し、政治部記者となる。

辣腕の記者であった西山太吉が歴史に名を残すのは、1971年の沖縄返還時にあった日米密約の暴露であった。1972年の国会で、横路孝弘楢崎弥之助が追求し、これが西山事件と呼ばれるまでに発展する。熾烈なスクープ合戦の中で、確証を求める記者は外務省事務官の女性と男女の仲になり、大スクープをものにした。

西山は東京地検特捜部から逮捕、起訴される。東京地裁は無罪としたが、東京高裁の控訴審で有罪となり、上告するも1978年に棄却され確定した。

ところが2000年になって密約を記したアメリカの公文書が発見される。西山は国家賠償請求訴訟を起こす。2006年には当時の吉野文六外務省アメリカ局長が密約の存在を認め、争ったが最高裁では密約文書を不開示とした政府決定を打倒とする判断を下した。

2012年に『佐藤栄作日記』第4巻を少し読んで食事を終えて、テレビを見ていたら山崎豊子原作『運命の人』をドラマをやっていた。沖縄返還時の密約をすっぱ抜いた毎日新聞の西山記者の物語だ。モックン演じる弓成は毎朝新聞の敏腕政治記者として活躍するが、ライバルの読日新聞の山部一雄はのモデルは、読売新聞の渡辺恒雄ではないかと調べたら、やはりそうだった。

1971年の沖縄返還協定の調印の日の佐藤栄作の日記を繰ってみた。沖縄返還協定調印式をインテルサットを利用しての、、初めての試みで行う。正文は東京で作成する。この調印式の前に夜の八時半から閣議決定。九時すぎ式場に入り予定通り進行、無事調印を終える。一部の学生を中心にしての調印反対のデモが行はれたが、大した事はない。沖縄も同様。一部の反対者の所論は諒解に苦しむもの。軍国主義に反対か或は日米安保に反対なのか、何れにしても困ったもの。、、」との記述がある。

東京地検特捜部では、1971年沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の西山太吉記者らが国家公務員法違反で有罪となった。佐藤道夫はいわゆる西山事件の捜査を担当し起訴状を書いた。起訴状では、西山記者は外務省女性事務官と「ひそかに情を通じて」、これを利用して秘密文書を持ち出させたとした。この言葉で国家の密約問題から、スキャンダル事件へと本質がすり替えられたという批判がある。

後に佐藤道夫は「言論の弾圧といっている世の中のインテリ、知識層、あるいはマスコミ関係者なんかにもね、ちょっと痛い目にあわせてやれという思い」から起訴状の文言を考えたと述懐している。是非はともかく佐藤の意図どおりに進展したわけだ。

国民の「知る権利」と「国家権力」との戦いであったはずが、取材方法の方に、マスコミも世論も関心が移っていくことになってしまった。

西山太吉は、2013年の特定秘密保護法案を審議する紗人国家安全保証特別委員会で意見陳述をしている。冒頭の言葉は、その時の発言である。

沖縄返還時の日米密約は、核の持ち込み、基地の自由使用、日本側の巨額負担などである。その後、半世紀以上たつ。西山太吉の生涯は「知る権利」と「国家権力」の構図の中に存在することになった。

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