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「名言との対話」2月4日。小林庄一郎「これで関経連会長にはなれないな」

小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1922年7月14日 - 2020年2月4日[3])は、日本の経営者。享年97。

中華民国大連出身。東京帝大時に学徒出陣。敗戦後に復学。卒業後、関西配電(関西電力)に入社。1977年関西電力社長、1985年会長。1987年芦原義重名誉会長を解任した(関電二・二六事件)。1997年相談役2002年-2015年顧問。

入社早々の関西電力は戦後復興期にあり、電力不測の解消という難題を抱えていた。社運を賭けて「黒部第四ダム」の建設にあたっていた。人跡未踏の秘境に黒部第四ダムの建設が始まる。通称「クロヨン」である。これは実に困難な工事であった。その工事を描いた熊井啓監督の「黒部の太陽」は石原裕次郎三船敏郎が主演し、734万人を動員した傑作となった。少年時代の私も見ている。三船プロダクション石原プロモーションの合作だった。

社長秘書だった小林氏は工事現場に入り、自然のすさまじさと果敢に挑戦する姿に驚嘆した。その後も「あれを忘れることはできない」と振り返っている。小林の関電人生の重要なエポックとなった。

小林の経歴だけをみると、順調なビジネスマン生活だったという印象を受けるが、最終盤の会長時代に大きな波乱が待ち構えていた。1987年2月26日の取締役会で起きた「関電の2.26事件」と呼ばれたクーデターだ。「中興の祖」と呼ばれた芦原義重・代表取締役相談役名誉会長と、その腹心の内藤千百里副社長を解任した事件である。芦原義重は相談役になっても代表権は手放さなかった。代表取締役相談役名誉会長という奇妙な肩書にそれが現れていた。

そして隠然たる影響力を行使し人事の私物化が横行していた。それを小林が追放したのだ。小林はそれしか道はなかったと述懐している。

しかしこの内紛は世論の指弾を浴びた。評判の落ちた関電とこのクーデターを首謀した小林は関西経済連合会関経連)の会長に就任することはできなかった。そのことを意識しながらの「自分がやるしかなかった」との決断で緊急動議を提出した。

これは「老害」という観点からも話題を集めた。賞賛する声もあったが、老害の排除を断行し、泥をかぶった小林庄一郎も激しい返り 血を浴びたのである

「自分でも運に恵まれていることは認めている。しかし、運は一人で占めるべきものではありません。また一人の努力のみによって開けるものでもありません。禍福はあざなえる縄のごとくやってくるものです」と語っている。この事件を意識した言葉だろう。

その後、小林庄一郎は75歳で会長を退き、単なる相談役となった。引き際の美学を示したのだ。小林庄一郎は97歳の長寿であったから、四半世紀以上の時間があったことになる。その間の生活にも興味がある。

「出処進退」については、昔も今も悪い例にはこと欠かないが、みごとさという観点から幾人かをあげてみよう。

「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」と喝破した住友の伊庭貞剛。

人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四文字でございます。そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの」と語った河井継之助

「兄が逆賊だったから、俺がトップになったら民衆が納得しない」といって、再三の総理就任の要請も断った西郷従道

総理大臣の椅子を病気によって71日という短い期間で潔く退くという見事な出処進退を示した石橋湛山

「人生は腹八分だ。も少しアシダにやらしたかったと言ふ程度で引込むのが良いのであろう」といった芦田均

「人生は離陸に始まり着陸に終わる飛行だから、着陸がまずければ名パイロットにはならない」。「早くやめなきゃ」と67歳で退任した本田宗一郎は、その後、全国行脚しお世話になった人たちに挨拶に回った。

渋沢栄一。河島喜好。石橋幹一郎。真藤恒。星野仙一千代の富士。佐橋茂。、、、、、、。

之を機会に悪い例も含めて、「出処進退」というテーマでいずれまとめてみたい。

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