5月21日。藤山寛美「順番を待っているだけの人間には永久に順番が来ない」

藤山 寛美(ふじやま かんび、本名:稲垣 完治(いながき かんじ)、1929年6月15日 - 1990年5月21日)は、日本の喜劇役者。

新派の二枚目役者だった父・藤山秋美よりも役者としても人間としても寛大になれという意味で、寛美という芸名がついた。「あんまり下手やと、草葉の陰でお父さんが泣きはるで」と母が言いつのるのにたいして、「お母はん。どの辺の草むらで泣きはるの」と訊いたという逸話も寛美らしい。

「遊ばん芸人は花が無うなる」というお茶屋を経営していた母親キミの教えを守り、金に糸目をつけず豪遊した。「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれ、戦後の上方を代表する遊び人として多くの逸話を残した。銀座のクラブのドアマンに車をチップとしてプレゼントしするなど湯水のように金を使いまくった。その結果は現在の価値で10億前後で破産でし、松竹をクビになる。

松竹新喜劇は寛美がいなくなると火が消えたようになり、寛美を呼び戻す。それから20年、244ヶ月連続無休公演という世界記録を樹立した。大阪、京都、名古屋、東京、地方巡業で、一ヶ月のうち25日は、昼3本、夜3本の公演、その他の日は稽古という猛烈な日々であった。公演の回数としては3万回を越えるという途方もない記録である。

1959年から寛美のアホ役の集大成ともいえる舞台『親バカ子バカ』のテレビ放送が始まり全国にファンをつくった。私はこの番組で家族と一緒に大いに笑ったものだ。ただ、家族との関係は悪く、寛美は自宅でダジャレをいうと、「何が面白いのん?」「しょうもない事言うてんとはよ食べ!」と冷たくあしらわれていたそうだ。

「わしはいいぞ。 せやけどな、お金を払って見に来てくれるお客さんに、そんな芸でええんか!」

寛美の楽屋には「芸」の一文字が掛けられていた。 辞世の言葉は「いい脚本はないか いい芝居がしたい」だった。

1951年に「桂春団治」では、寛美に与えられのは主役の渋谷天外に「ツケを払うとくなはれ!」というセリフだけだったのだが、アドリブで延々とアホ役を続け、人気が沸騰した。やはり、寛美はただ順番を待つ人ではなかった。与えれたチャンスで出番をもぎ取る。その姿勢を生涯貫き、ついに喜劇王となったのだ。順番を待つだけの人には永久に順番は来ない。至言である。

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