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5月10日。難波康子「やはりエヴェレストは大変である。登った人はどんな形にせよ尊敬する」

難波 康子(なんば やすこ、1949年2月7日 - 1996年5月11日)は日本の登山家。

難波康子は1975年の田部井淳子に続き、21年後の日本人女性二人目のエベレスト登頂者である。47歳での登頂は女性最高齢登頂記録である。

1980年 - モンブラン(4,810m)登頂。1982年1月1日 - キリマンジャロ(5,895m)登頂。1984年1月1日 - アコンカグア(6,960m)登頂。1985年7月1日 - マッキンリー(6,168m)登頂。1992年8月1日 - エルブルス(5,642m)登頂。1993年12月29日 - ヴィンソン・マシフ(4,892m)登頂。1994年11月12日 - カルステンツ・ピラミッド(4,884m)登頂。その集大成として1996年5月10日 にエベレスト(8,848m)登頂に成功した。それで七大大陸最高峰登頂が完成し、女性セブン・サミッタートなった。事前に難波は「6つ登ったから7つ目を登る」と淡々と述べていた。この快挙は日本でも大きく報道されたが、その直後に下山途中の悲報が伝えられた。

多くの著名登山家はスポンサーを獲得することで膨大な資金を調達し、登頂後にメディアへの露出を高めて、さらなるスポンサーを獲得し、次の大きな挑戦に繋げてきた。それに対し難波康子は費用のすべてを自分の収入から支払った。スポンサーをつけなかった難波康子はメディアへの露出が無く、他の登山家と比較するとまったくの無名な登山家であった。

遠征で長期休暇を取得する前には、同僚に負担をかけないように土日まで働いていた。トレーニングのために高層ビルの階段を駆け登ったり、丹沢の大山を走って登ったり、朝早く家を出て八ヶ岳を登りその日のうちに帰ってくるなどということもやっていた。キャリアを中断させること無く、自身の収入と休暇だけで七大大陸最高峰登頂を成し遂げたという面では、新しいタイプの登山家であった。

難波は国際宅配のフェデラル・エクスプレスの人事部に所属するOLだったから苦労も多かったと想像する。遺品となったノートに女性がヒマラヤに挑戦する困難さを以下のように記している。働いていなければ資金が難しい。働いているとバケーションの問題。周りの理解。男性隊にまじった場合には登らせてやるという感じ。結婚・出産・子供の問題。、、。冒頭の言葉のように難題をクリヤーした女性登山家を尊敬したのだ。女性登山家の抱える難題の山はエヴェレストよりも高かったかもしれないことを想像させる。


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