4月27日。 大社義規「ツキが落ちても悲観するな」

大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、日本の実業家。日本ハム創業社長。

1963年に日本ハムに商号を変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。2002年の狂牛病対策による農林水産省の制度を悪用した牛肉偽装事件の影響で経営の第一線から身を引く。

大社は「不況は新しい種まきをする絶好の機会である」と言う。「新工場建設などの大型投資は、景気の悪い時にやるのが一番だ。景気の悪い時は、社員は心配して非常に堅実な計画をたてる。それが狙いだ。景気のいい時の計画は、どうしても大雑把になり、あとでとんだ後悔をすることになる」からだ。
業界紙「日本加工食品新聞」の小菅留治編集長と知り合い、その後長きに渡って交流する。小菅編集長は後の藤沢周平となった。大社は藤沢の小説は全て読破する熱烈なファンとなり、交流は晩年まで続いた。

1973年に先輩である三原脩の勧めにより日拓ホームフライヤーズを買収し、「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参戦、オーナーに就任。1981年には大沢啓二監督の指揮で19年ぶり、日本ハムとしては初めてのパシフィック・リーグ優勝を果たす。このときに着ていたユニフォームの背番号100は永久欠番となった。日本ハムは2006年に大社の夢であった日本シリーズを制覇する。この時、大社の養子である大社啓二が、遺影を持ってグラウンドに現れ遺影は選手によって胴上げされた。野球狂の大社は生前「やろうと思えば何でもできる」、「できると思えば必ずできる」という言葉を選手たちに言い聞かせていたそうである。

三原監督、藤沢周平などとの交流の軌跡をみると、この人は「縁」を大事にした人だと感じる。この文章を書いているうちに、私の郷里・中津で食肉業を営んでいる友人が、この大社を尊敬していたことを思い出した。

ツキが落ちても悲観する必要はない。なぜなら、そうした局面で何をしたか、どう対応したかによって、その後の展開が大きく変わるからだ。「じっと辛抱して持ちこたえていれば、不思議と運は開けてくるものなんです」と大社義規は語っている。不況、不遇、不運は、次の展開のへむけての準備期間と考えよう。


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