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スペイン旅日記その2 ~ バルセロナに見た地方アイデンティティ

1997年バルセロナ


1997年夏。

スペイン研修の日程の後半でバルセロナを訪れました。

その当時は、まだバルセロナオリンピックの残り香がふんだんに残っていました。

例えば、女子陸上で60年ぶりの銀メダルを獲得した有森裕子さんが走り抜けたモンジュイックの丘を訪れると、風景に喚起されたのか、TVで見ていたあの興奮が、爽やかな風とともに沸き起こってくるのを感じていたのを思い出します。

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それは、もしかすると海に面したバルセロナの開放的な立地がそのようにさせた面もあったのかもしれません。

でも、この開放的なバルセロナにも、実は屈折した感情が渦巻いているんです。

地方の意識

その感情は、フランコ将軍の独裁政権時代に多くが形作られたのだと思います。

それは中央に対する旺盛な反感と、それに起因する独立の意識。

この当時、スペインはマドリードを中心とした強烈な中央集権を敷いていました。

日本に例えると想像しやすいと思うんですが、(あえて中央と地方という分け方をすると)地方には独特の文化・風習があって、それこそがアイデンティティのようなものだったりします。

たとえば言語もそうですね。日本の場合は方言となりますでしょうか。

フランコ将軍の独裁政権下では、全国的な共通言語は一般的なスペイン語(カステジャーノ(*))となり、それがある意味、強制されました。公の場所ではそういう意識が一層強かったのでしょう。

(*)マドリードの属するカスティージャ州の言葉という意味のスペイン語

強烈な中央集権という枠組みがあったということですね。

この枠組みについて、視点を変えてみると、ソ連を中心とした社会主義国家にその類似性を見て取ることができます。

(類似性と書きましたが、この場合は枠組みがはずれたことによる影響です。スペインの場合は後述のとおり、枠組みができたことによる影響。)

1989年より、冷戦崩壊、ソ連の崩壊を経て、連邦を構成していた各国の独立(独立国家共同体という言葉もありました)が発生。

各国の国境について考えてみると、これは、もともと帝国主義的に強圧的にひかれた国境なので、それまでの民族居住区分に必ずしも従っていたわけではなく、、同じ国に異民族が集まっていたのが実情でした。

そして彼らを囲っていた枠(国境)が取り払われたとき、、、起こったのは国ではなく民族としての独立運動、、、つまりアイデンティティを自分たちの手に取り戻そうとする動きでした。

この当時、新聞の付録でついてきた「世界情勢」をまとめた冊子に誰かのこんな言葉が乗っていました。

「我々は自由を手に入れた。だが、この自由をどう使うかをまだ学んでいない。」

結果、、この独立運動に起因する自由な気風は民族浄化運動となり、、、戦争・戦乱へとつながっていきました。

強圧的にはめた枠組みは、それが崩壊するとき、枠に納められていたものたちは予想もつかない方にこぼれ出ていきます。

独裁の結果

スペインに話を戻します。

元々、スペインは、各地域に固有の文化が根付いていました。

・南部のイスラム様式やフラメンコ(一般的に情熱の国と言われるものの大部分はスペイン南部に見られます)
・北部のうらびれた印象の街並み
・東部はバルセロナを中心とした文化の最前線(フランスに近いという状況もアリ)

この豊かな成熟した地方文化が、フランコ登場~強固な中央集権下に置かれた結果として、負の副産物を生んでいくことになります。

枠組みがあること自体が、地方のアイデンティティを喚起し、マイナスに影響したといえます。

・北部バスク地方ではテロ組織ETAが登場
・バルセロナでは民俗的な動きが活発化(*)


(*)バルセロナ地方の方言は、「カタラン」=「カタルーニャ語」と呼ばれ、文法もスペイン中央部(標準語)の「カステジャーノ」とは全く違う。この言葉をバルセロナの人々は公の場でも使うようになっていきました。

つまり苛烈な中央集権は地方のアイデンティティをより一層揺り動かす結果になったんですね。

この一つの集約地が、サッカーおよび、サッカーの観戦場所であるスタジアム。

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現地でサッカー観戦されたことのある方はわかると思いますが、殺気立っていて、身の危険を感じることもありますよね。

当時を思い起こすと、こんなこともありました。

滞在時、マドリードの王宮(*)に行く機会がありました。そのとき帯同していた同僚が、レアル・マドリ―ではなく、アトレティコ・マドリーのユニフォームをきていたんです。そうしたら冗談ぽい言い方でしたが、レアルファンの美術館の従業員の方にやんわりと注意されていました。「ここでそのユニフォームを着ちゃだめよ」と。

(*)レアル、とは、王の認証の証なんです。

これが過激に発露するのが、クラシコと呼ばれる「レアル・マドリー」と「バルセロナ」の試合です。

これもまた、独裁の副産物でした。

そして、バルセロナオリンピックでのエピソード

フランコの死から十数年。1992年、バルセロナで平和の祭典オリンピックが開催されることになりました。

バルセロナ地域言語は、前述のとおりカタルーニャ語(「カタラン」)で、この地域の人々の民族アイデンティティになっている言葉です。

この時、注目されたのは、当時のバルセロナ市長のスピーチ。標準語(カステジャーノ)で話すのか。。。はたまた、方言(カタラン)で話すのか。。

どっちだったと思われますか?

結果、市長はバルセロナ地方の言葉、カタランで、スピーチをしました

これはスペインにおける地方のアイデンティティの強さや愛を感じさせるには十分な出来事でした。つまりそれくらいの熱量が各地方にはあるという事です。

視座を広げてみると、英国のEU離脱問題の根には、こういう意識がありますね。英国の場合は自国民と移民問題でしたが、根は同じような気がします。

スコットランドやバルセロナの独立運動が起きたのも記憶に新しいですね。

俯瞰してみると、人類は、、自国民、自分の人種以外の他社を、拒否する傾向があるのかもしれません。人種差別も根は同じですね。

さて、そんなことを想いながら、思い出の中で、1997年のバルセロナの港湾地帯を散策していると、オリンピックの記憶とともに、あの歌が脳裏に流れてきました。

フレディ・マーキュリーとモンセラート・カバージェ「バルセロナ」

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このバルセロナオリンピックには、テーマ曲がありました。

亡くなる直前のフレディ・マーキュリーが、オペラ歌手のモンセラートと歌った、その名も「バルセロナ」。(フレディは残念ながらオリンピックの前年に亡くなりました。)

これを仕掛けた人もすごいと思います。

これだけアイデンティティの強い地域で、その地域に根差した国家的イベントの中で、当時、歌唱力には定評があったとはいえ、英国人のフレディを起用して「バルセロナ!」と歌ってもらう。。。

よく考えるとすごいことです。(オペラ歌手のモンセラート・カバージェは現地の方)

この曲は、圧倒的なバルセロナ賛歌です。(歌詞は英語とスペイン語が交互に出る展開。)

独裁や戦乱の負の歴史など、一気に吹き飛ばしてしまうくらいに、圧倒的な熱量とこの地域への愛がこもった、まさに賛歌(Hymn)と呼ぶべきものです。

では、今回はこの曲を聴きながら、往時に思いを馳せつつ。。。



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