見出し画像

ロニー・バロン『ブルー・デリカシーズ Vol.1』のレコードを買ったころ

画像1

(6 min read)

Ronnie Barron / Blue Delicacies Vol.1

きのう書いたベターデイズでロニー・バロンのアルバムを聴きなおしたくなって、『ブルー・デリカシーズ Vol.1』(1979)をSpotifyでさがしたらありました。前はなかったよねえ、いつのまに?上に出したジャケットは1981年の日本盤のもの(ヴィヴィド盤)です。オリジナル・ジャケは下↓みたいですね。Spotifyもそれを使っています。

画像2

しかしですね、このレコードは完璧にジャケ買いだったんですから、上のやつじゃないと個人的にピンと来ないんですよね。雰囲気が出ません、聴いたという気がしません。オリジナルじゃない日本盤のものであるとはいえ、こりゃどう見てもオリジナルよりいいですよねえ…、というのは惚れたひいき目かなあ。

ロニーの『ブルー・デリカシーズ Vol.1』のことは、以前二度くわしく書いたんですけれども、それはそれとして、いまの気分を記しておきましょう。このブログは決して新作紹介ブログじゃないですから、好きでたまらないものは、なんど書いてもいいんです。

ところでぼくが1981年にレコード・ショップ店頭でヴィヴィド盤『ブルー・デリカシーズ Vol.1』を手にとったとき、ジャケット・デザイン以外でちょっと目にとまったのは帯に書いてある字句でした。上掲画像を指でピンチ・アップしてみなさんもどうかごらんください。

久保田麻琴さんの推薦文で、「南カリフォルニアの最も重要な隠された秘密、それがロニー・バロンだ。このアルバムでは古典を取り上げているが、その表現のヴィヴィッドさはどうだろう。ライ・クーダーは嫉妬し、デヴィッド・バーンはよだれをたらすことだろう」とあります。

1981年当時のぼくはたぶんライ・クーダーもデイヴィッド・バーンも聴いたことなかったと思うんですけど(ライは名前だけ知っていたかも)、なんだかたいへんな推薦盤なんだな、中身がすごいんだなということは想像できますよね。もっとも、久保田麻琴という名前だって初見でしたけどね。

ジャケットの魅力に一発KOされたこととあいまって、それでレコードを買って、自宅へ帰って聴いてみたら、中身は最高でしたね。ニュー・オーリンズ・クラシックスといっても、当時はプロフェッサー・ロングヘアとドクター・ジョン(の『ガンボ』)くらいしか知りませんでしたから、そこはピンと来なかったんですけど。

でもロニー・バロンのピアノも歌もいいですよね。特に歌、というかヴォーカル表現、もっと言えば一曲ごとに、あるいは一つの曲のなかですら、チェインジしていく声色の多彩さです。ちょっとキザったらしくてわざとらしいというか、ケレン味たっぷりなんですけど、そこがぼくの気に入ったところだったんです。

そのへんのこと(このアルバムで聴けるロニーのヴォーカル・パフォーマンス)は、以前の記事でわりとくわしく書きましたので、ぜひご一読ください。

さて、たとえばドクター・ジョンの『ガンボ』もニュー・オーリンズ・クラシック集で、みんながこのアルバムを道案内にして同地の古典ナンバーの世界に分け入ったように、ぼくがロニー・バロンのこのアルバムでやはりニュー・オーリンズ・クラシックのまた違った古典の世界に入って行ったかというと、そうでもなかったんです。

だってね、久保田さんの書いた帯の文句に「古典」とあったからといってもぜんぜん気にしておらず、そもそもだれがオリジナルで、だれがやったいつごろの曲かなんてのもわからなかったですからね。買ったレコードに封入されていたライナーノーツも不親切でした。どこ見りゃわかるのよ?って感じだったかも。

ぼくのばあいは、もっと早くに聴いていたドクター・ジョンの『ガンボ』でも、やはり古典の世界には入っていかず、ただそのアルバムを楽しんでいただけでしたからね。ある時期以後、どんどん古いほうへ古いほうへ、オリジナルへ、という志向が強くなった人間なのに、あの当時はそうでもなかったんでしょうね。ジャズだけは例外でしたけど。

古典へ古典へと分け入っていくのはジャズの世界だけにしておかないと、教えてくれるひとも情報もない一介の大学生にとって、アメリカ音楽の世界だってあまりにも広大すぎるんだということを、なんとなくぼ〜っと感じとっていたのかもしれないですね。『ガンボ』にしろ『ブルー・デリカシーズ Vol.1』にしろ、収録曲のオリジナルまでちゃんとわかるようになったのは、ここ20年くらいのことです。

(written 2020.11.2)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?