見出し画像

「アレサ」の呪縛 〜 カタカナ談義(3)

(10 min read)

その1

その2

バラカンイズムだの発音警察だのと言われて、一部ではひどい揶揄の対象にまでなっているカタカナ書きの際の表音主義。しかしですね、音を汲んでその上でそれを文字表記しなければならない外国語のカナ表記は、やはりなるべく原音に近い書きかたがいいはずだと、ぼくも信じています。

もちろんこれはあまりやりすぎてもどうか?ということではありますけどね。ピーター・バラカンさんがあれこれ言われるのは、やはり度が過ぎているからですよ。ポリシーというか主義、考えかたは間違っていないのに、まるで警察官がパトカーで街中を走りまわっては軽微な交通違反に鬼の首でも取ったみたいにキップを切りまくるがごとく、バラカンさんはやりまくりですからね、あれじゃあね。

もう一個、バラカンさんは指摘する際、常に、正しい表記はこうです、みたいな言いかたをするのも嫌われる原因でしょう。「正しい」ということばを使ってしまうと、あたかも自分が絶対正義で、あんたがたは間違いだという、なんだか我が物顔で通りを歩いている王様かっ!っていうような感触を抱いてしまいますから。正義の使者みたいっていうか。

それでもバラカンさんの言っている内容それじたいはきわめて妥当です。アリーサ・フランクリンが「アレサ」なのはやっぱりぼくも許せないし、同様にドゥエイン(デュエイン)・オールマンが「デュアン」のままなのもなんとかしてほしい。ディレイニー・ブラムレット(デラニー)も同様で、その他無数。

ぼくのばあいはマイルズ・デイヴィス表記を採用していて、世間のみなさんのマイルスとちょっと違いますが、でもこれくらいならちょっとした誤差の範囲内みたいなもんで(ブルーズ/ブルースと同じ)、さほど違和感も強くないっていうか、マイルスのままでもべつにいいかなって思わないでもないです。音と違うからちょっぴりイヤだけど。

SNSなどを徘徊していると、なかなか直さないひとのほうが圧倒的多数で、アリーサやドゥエインやディレイニーやマイルズなんていう表記はほぼ見かけません。最大の原因は検索関連だと思います。Google検索みたいにあいまいなものをそのまま「これですか?」みたいに結果表示してくれませんからね。Google検索だとアリーサで検索してもアレサもアリサもぜんぶひっくるめてヒットしますけど、SNSの検索だとそうはいきません。

それなのに検索ってホント大切なんです。自分の発信が(検索されて)大勢に届いてほしいと思ったり、さがしている目的の内容にたどりつくために適切なキーワードを入れないといけないし、だから表記が揺れていると思ったようになりませんから。いきおい多数派の表記で書いたりサーチすることになって。

こういうのって文字表記体系が異なる言語間での移植の際にだけ、しかし必ず、発生する問題ですから、一種の呪縛だと思うんです。アメリカ人英語話者のAretha FranklinはフランスでもイタリアでもスペインでもArethaのままだけど(書くときはね)、日本語のカナで書くばあいは音を汲まないといけないっていう。宿命みたいなもんです。

そんな移植のまず最初のとっかかりはレコードやCDなどの商品発売の際にジャケットや帯や解説文に書いてある表記でしょう。だからまずはレコード会社がちゃんとしなくてはなりませんでした。レコード会社が「アレサ」と書いたから雑誌やラジオや新聞など(音楽)マスコミもそれにならってしまったし、評論家やライターなども合わせたというわけで、そんなテキストが流通して一般のファンのあいだでもそれが定着してしまいました。

それでひろまってしまったらもはやだれも直さないっていう、SNS時代になってもアレサのままで。バラカンさんや一部有志などが奮闘しても、かえって揶揄されるばかりで、間違ったことはしていないのに、タダシイことを言っているのに、どうしてこっちのほうがそんな言われかたしなくちゃいけないんだよぉ?!と感じることしきり。

だから、たどると元凶はレコード会社ですよ。レコード会社が、いまはCDか、それを発売する際に、各外国語の原音に通じた人物にしっかり確認するなどしてちゃんとした表記をしなくてはなりません。ぼくら無力な一般人がどんだけSNSやブログなどでがんばって「こうだ」と主張しても、影響力はきわめて微弱です。バラカンさんのような有名人ですらむなしい奮闘をしているというに近いんですからねえ。

もちろんレコード会社もあまりに妙チクリンなウソ表記は再発の際に改めることがありますけどね。ぼくが鮮明に憶えているのは、マイルズ・デイヴィス(ソニーの表記はマイルス・デイビス)1971年のアルバム『Live-Evil』を、ずっと前ぼくが最初にレコードを買った1980年ごろは『ライブ・エビル』と表記していた件。

LiveがライブなのはいいとしてEvilがエビルなのはあまりにもひどすぎる、涙が出てくるほどだというんで、非難轟々、ある時期のCD再発からソニーも『ライヴ・イヴル』に変更、ほんとうはイーヴルなんだけど、それでもまずまず許容範囲かなと思える程度にまで現在はなんとか着地しています。

はっきりしているのは、広告料をもらっているせいでレコード会社への忖度がひどい各種音楽雑誌も、ソニーのこの変更にともなって、それまで『ライブ・エビル』だったのをソニー採用の『ライヴ・イヴル』表記に一斉に修正したという事実です。ライターさんたちも合わせることになり、一般世間でも、いまやだれも『ライブ・エビル』とは書いていません。

こんなもんですよ。

とはいえ、ぼくも執筆した1998年の『レコード・コレクターズ』誌のマイルズ・デイヴィス特集ではちゃんと『ビッチズ・ブルー』表記で統一し同誌ではその後もそれを貫いているにもかかわらず、大勢のプロ音楽ライターや一般ファンはいまだにソニー採用の『ビッチェズ・ブリュー』でやっていますけどね。聞いているか、村井康司。

だからさ、問題はレコード会社がどう書くか、それだけ。それこそが「すべて」。そこが直せばほかもぜんぶ忖度して追随するとわかっています。

音楽雑誌などメディア、マスコミなどは、上でも書いたようにレコード会社に逆らえない事情がありますし、ライターさんたちもそこに書いて生計を立てている以上、ものが強く言えません(バラカンさんのスタンスはだから特殊)。それでそのまま公式表記が是正されなかったら、一般世間でアリーサ、ドゥエイン、ディレイニー、『ビッチズ・ブルー』などになるわけないじゃないですか。

ホント情けないなとは思いますけどね。日本生まれの日本語母語話者でただひとり、この問題に正面から向き合ったライターが生前の中村とうようさんでした。1998年の『レコード・コレクターズ』誌(寺田正典編集長時代)が『ビッチズ・ブルー』表記を業界ではじめて採用したのは、まさしくとうようさんの創刊した雑誌だけあるという心意気だったんでしょう。

いまや、どこにもそんな気概を持つ編集者、プロ・ライターはみられなくなりました。バラカンさんは英国出身の英語母語話者だから、っていうんで、それでみんな特別視しているだけですからね。もう何十年もやってきて皮膚感覚で血肉に染みついた表記慣習をいまさら直せますかって〜の!という意見も目にしますが、それはたんなる情緒論にすぎません。

レコード会社には、自分たちが忖度される立場であること、自分たちがちゃんとしないと日本中が右へならえしてしまう存在であることを、もっと強く自覚してほしいと思います。

過ちては改むるに憚ること勿れ。

(written 2021.4.23)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?