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1961年1月、ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ初来日

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Art Blakey & The Jazz Messengers / First Flight To Tokyo: The Lost 1961 Recordings

1時間43分がただひたすら退屈だったアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのアルバム『ファースト・フライト・トゥ・トーキョー:ザ・ロスト 1961 レコーディングズ』(2021)。一週間か十日ほど前にリリースされた未発表音源です。

アルバム題どおり、このバンドの初来日公演となった1961年1月の東京でのライヴ・ステージを収録したもの。例によってブルー・ノートは各種ソーシャル・メディアで出すぞ出すぞと数ヶ月前からどんどんおどかしていたし、またこれにかぎっては日本人関係者の一部にも派手に予告し期待を持たせるかたがいました。

1961年1月というと、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズはリー・モーガン、ウェイン・ショーター、ボビー・ティモンズ、ジミー・メリット。来日の約半年前にこのメンバーで名作『チュニジアの夜』を録音しているといった時期です。

このクインテットでの活動というか録音歴はあんがい短くて、正式スタジオ録音は二作しかありません。すぐにカーティス・フラー(トロンボーン)が加わっての三管編成になり、そして三管のままほどなくトランペットがフレディ・ハバードに交代します。

モダン・ジャズというかハード・バップの、本場アメリカの、しかもバリバリ第一線で大活躍中の現役バンドの来日はこれがはじめてだったということで、日本におけるモダン・ジャズの門戸を開いた貴重で重要な記録ではありますね。その意味でこそ価値のある音源なんでしょう。

『ファースト・フライト・トゥ・トーキョー』、中身の演奏じたいはですね、たいしたことないというか、標準的ハード・バップ・ライヴ、いじわるな言いかたをすれば平凡な出来でしかなく、当時のジャズ・メッセンジャーズだってもっと内容のあるステージは(日本でといわず)くりひろげていたはずだと思うんです。

1961年ということで、アメリカでは従来的なコード・チェインジにもとづく作曲とアド・リブ法からモーダルなアプローチへの進展もみられていた時期。この一月の来日時にもジャズ・メッセンジャーズ、特に音楽監督役のウェイン・ショーターがそれを日本の当時の若いジャズ・ミュージシャンたちに伝導したということも言われています。

がしかしそれは来日時になんどか行われたという交流イベント(セミナー?)でのことだったんでしょう。このライヴ・アルバム『ファースト・フライト・トゥ・トーキョー』では、モーダルなコンポジションもインプロヴィゼイションもまったく聴かれませんから。従来的にコーダルなモダン・ジャズですよね。

それでも聴きどころはそこそこあります。特に「モーニン」「ブルーズ・マーチ」「ダット・デア」三曲のファンキー・ナンバーで展開されるボビー・ティモンズのアーシーなブロック・コード・ソロ。がんがん叩いて否応なくもりあげて、もともとこういう世界が大好きなぼくには快感です。

また「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」はウェインのサックス・ソロをはさんでのリー・モーガンのショウケースとなっていますが、リーは終始ハーマン・ミュートで静かに淡々と吹いています。これはおそらく(当時すでに日本でも人気のあった)マイルズ・デイヴィス・ヴァージョンを意識したんじゃないかと思えますね。マイルズの初来日は64年。

しかしその程度であって、音しか聴けないサブスクだと『ファースト・フライト・トゥ・トーキョー』はイマイチおもしろくないアルバムだというしかなく、日本の聴衆にとって初の本場アメリカ黒人ミュージシャンが生で演奏するハード・バップ・ライヴだったという熱気も伝わってきません。

もちろんこれはサブスクだからわからないだけで、こういったアルバムはLPなりCDなりといったフィジカルで買わないと、おもしろみも当時の記録としての重要性、証言性も理解できないはず。

豊富な写真類、渡辺貞夫さんや湯川れい子さんなど当時を体験したかたがたの証言、テープ発見とリイシューに至るまでの経緯の解説など、満載らしいですからね。アート・ブレイキーの子、タカシ・ブレイキーが寄せた文章も載っているそうです。

ぼくは買う気ありませんが。

(written 2021.12.16)


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