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イージー・リスニング、BGM というとバカにされそうだけれども

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そんなことないんですよ。極上のリラクゼーションになるのがイージー・リスニングですからね。なにかをしているとき背景で流れていて聴いていてジャマにならない、心地いいというのはすぐれた音楽である証拠です。真剣に向き合って聴き込むことのできるものが一流の音楽で、BGM だイージー・リスニングだなんてのは何段も落ちる下等音楽だ、なんていうある種の蔑視がこの世にはびこっている気がしますが、ちょっとおかしな発想じゃないかと思います。

逆に言えば BGM にすらならない音楽なんて、心地よくないんだからそっちのほうが音楽としては劣っているかもしれないぞというのがぼくの考えで、どれがそうだなどとは具体的に指摘できませんがけっこうあります。それも世間一般で名盤だ重要作だとされているもののなかにあるように思うんですね。世評じゃなくて自分の耳や自分の快感を最優先して聴いていますから、そういったものはだんだん遠ざけていくようになります。

世間でシリアス・ミュージックの名盤、しっかり聴き込むべき傑作とされているなかにも、本当はイージー・リスニングとしての効用が大きいだろうと思えるものがあって、ぼくのなかではその意味でも評価が高い作品があります。こっちは具体例を出しますがマイルズ・デイヴィスの『マイルズ・アヘッド』(1957)や『カインド・オヴ・ブルー』(59)などがそうですよ。前者はともかく後者をイージー・リスニングと言うと反発くらいそうですけどね。

しかしそれで反発するかたがたは「イージー・リスニング」などランクが下のものだとみなしているからでしょ。ぼくのなかではイージー・リスニングとは褒めことばなんですから。極上の快感とリラクゼーションをもたらしてくれるシルキー&メロウなムードあふるる傑作のことですからね。そう考えると一流の音楽はこれすべて一流の BGM、イージー・リスニングになりうるんだとも言えますね。それが真実だろうと思います。いや、ちょっと言いすぎですねゴメンチャイ。

だからシリアス聴き vs イージー聴きみたいな対立思考をもうやめたらいいと思うんです。共存しうるものですから。聴き込んでよし流してよし、っていうような音楽こそ真の一流のあかしかもですよね。あ、そうなればクラシック音楽はこれに最もあてはまるものかもしれないですね。いちばんのイージー・リスニングはクラシック音楽だっていう、同時に向き合って真剣に聴いてもいいっていう。クラシック喫茶って居心地よかったですもんねえ、ジャズ喫茶ではみんなマジだったけど。

それで思い出しましたが、こないだ一月末にリリースされた森保まどか(HKT48)の『私の中の私』。傑作だと思っていますが、この CD を Music アプリに取り込もうとした際のジャンル名表示が "Easy Listening" になったんです。実際にはクラシック&ジャズですけれども、示唆深いなと感じました。クラシックやジャズのピアノ生演奏にヒップ・ホップふうのエレクトロ・ビートをまぜているんですけど、要するにチルホップみたいなものじゃないですか。

チルホップとかローファイ・ヒップ・ホップって、真剣にマジになってむずかしい顔して対峙するように聴き込むものじゃなくって、それを BGM にして勉強するとかリラクシング・タイムをすごすとか、そういったための背景音楽なんですね。ご存知ないかたはネットでちょっと調べてみてください、Spotify プレイリストなんかでも "music to study/relax to” となっていたりしますから。

そもそもヒップ・ホップ・ビートって、ビートだけ抜き出すとリラクシングなイージー・リスニングじゃないかとぼくは感じていますし、それを活用した近年の現代ジャズなんかもリラックス・ミュージックじゃないですかね。真剣に向き合って聴いてもいいけど、本質的には聴いてなごむような、リラックスできるような心地いい音楽。それが最近の音楽。特にビート。

これを踏まえると、森保まどかの『私の中の私』は、もともとクラシックの名曲だったものをとりあげてピアノで演奏し、それにプログラマーが制作したデジタル・ビートをミックスすることで、クラシック音楽の持つリラクシング性、つまりイージー・リスニング・ミュージックとしての本質とか効用といったものを最大限にまで高めるのに成功しているという、そんなアルバムかもしれないです。かなり褒めています。

もちろん聴き手の心にわざとさざなみを立てたり不快にしたり緊張感を高めて、考えさせるのもまたすぐれた一流の音楽ですけれども、ただぶらぶら流し聴きして快感になる音楽こそぼくのなかでは最もすばらしいものなんですね。言うまでもなくたとえば街を歩いていてイケメンや美人を見かけたときに立ち止まってふりかえってしまうように、BGM として流しているだけでもなにかの瞬間にオッ!となって、やっている手を止め注目してしまう、そんなこともよくありますけどね。

どっちにでもできる音楽、たとえばクラシック音楽の演奏会に出かけていってホールの椅子にすわって演奏がはじまっても読書していたりスマホでネットしたりして生演奏を BGM にするようなひとはいないはず。みんな対峙して聴きますよね。でもそんな現場で奏でられる音楽でも会場を離れれば TPO 次第で雰囲気重視のイージー・リスニングとしてうまく機能することがあるんですね。この二つは矛盾しないです。ひとつの真実の両面なんですね。

だから今後はイージー・リスニングという表現を蔑視や下等視に使わないでほしいと、ぼくは心から願っています。

(written 2020.2.2)

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