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ジョージ・ウェインがいなければ、こんにちのフェスの隆盛はなかった

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日本時間の2021年9月14日早朝、フェスティヴァル・プロモーター、ジョージ・ウェインの訃報が流れました。95歳とのことで、やるべき仕事をきっちりぜんぶやって天寿をまっとうしたと言える人生だったんじゃないでしょうか。

ジョージ・ウェインが音楽界で成し遂げたものの大きさは、ちょっとひとことで語り尽くせないものがあります。一般にはニューポート・ジャズ・フェスティヴァルとニューポート・フォーク・フェスティヴァル、特に前者の創設者として名が知られているでしょう。

ジョージ・ウェインがニューポート・ジャズ・フェスティヴァルを開始したのは1954年。それまでポピュラー・ミュージックの世界にこんな大規模ライヴ・イヴェントは存在しなかったのです。ジャズにとっても、ナイトクラブとコンサート・ホールが主な活動現場でしたし、しかも音楽家単独の出演というものばかりでした。

そこにジョージ・ウェインは大勢を集合させるフェスティヴァル形式の音楽ライヴ・イヴェントを企画し、それを毎夏実施することにしたわけで、ニューポート・ジャズ・フェスはその後最も歴史の長い最も有名なジャズ・フェスとして、歴史に名を残すことになりました。

このことの功績は、こんにちに至るまで類似のジャズ・フェスを無数に生んだということだけにとどまりません。たんにジャズ界にとどまらず、ひろく音楽ライヴ興行の世界一般に夏フェス形式を定着させたというところに、ジョージ・ウェインの真の偉大さがあります。

かのウッドストック・フェスティヴァルだってそうだし、ただいま日本でも公開され話題を呼んでいる最中の映画『サマー・オヴ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』になった、同じ1969年のハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルだって、ジョージ・ウェインの遺伝子です。

アルバム『ザイール 74:ジ・アフリカン・アーティスツ』になった、1974年にザイール(現コンゴ)はキンシャサで開催された音楽フェスティヴァル、ザイール 74だって、この手のものを開催するという発想そのものがジョージ・ウェイン的だったのです。

いま21世紀の日本でだって、今年は開催された例のフジ・ロック・フェスティヴァルもそうなら、新型コロナ感染対策を無視して強行され非難轟々の、愛知県で行われたヒップ・ホップ・フェスだって、夏開催の音楽フェスという意味ではジョージ・ウェインの孫みたいなもんです。

音楽ジャンルを問わず、世界のどこと言わず、時代を超えて、ジョージ・ウェインの編み出したフェス形式の音楽ライヴ興行は、もうぼくたちの体液にまでなっていると言えるくらいこの世界の隅々にまですっかり浸透しています。

日本人音楽ファン、いや世界で、フェスのない音楽体験はもはやありえない、フェス抜きに音楽ライフを語ることが不可能なくらいにまでなっている、そんな文化のありようのルーツは、なにもかもジョージ・ウェインが1954年にはじめたニューポート・ジャズ・フェスにあるんですよ。

ぼくの応援している岩佐美咲だって、単独のコンサートやライヴ・イヴェントだけではなく、大勢の演歌歌謡曲歌手が集合したジョイント形式のコンサートに出演することも多く、そんなところにまでジョージ・ウェインの遺伝子は伝承されていると言えるんですよね。

(written 2021.9.15)

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