僕の個人的な意見です。

音楽を奏でることや芸術を楽しむこと、ファッションや映画、スポーツで汗を流すことなどは、「遊び」と捉えているんです、残念ながら僕は。音楽が好きで映画が好きでスポーツも嫌いじゃないファッションも大好きな僕ですが。この遊びこそ生活に欠かせないもので 遊びが職業になったら尚更「幸せだろうな」と思いながら音楽に夢中になりましたし 夢中になってます。

逆にそれらを「人生そのもの」「命」などと比喩する方もおられるし、それを信じて生きる方もおられることは理解してます。それらに没頭できることは人生を変え、素晴らしい価値をその個人にもたらすことも知っています。

別の側面に、エッセンシャルワークやライフラインなどインフラな生活根幹を安定させる仕事をされている方には申し訳ないように感謝している。定職に就かず音楽を志していた若い頃は そのような職の方を見ると負い目を感じていました。「皆、立派に働いているのに自分はどうだ?」と勝手に卑屈になり、不良少年のようにいじけていたと思います。でも 今は感謝しかない。

インフラと言われる下部構造を支える仕事と僕の言う遊びの先に辿り着けた仕事(と、それらを支える仕事)の間はグラデーションであり、きっちりとラインが敷かれているわけでもない。でも極端な状況になるとそのラインが浮き出てしまう。現在の状況下では、煌びやかな業界は尚のこと煌びやかに目立ってしまい、ストレスのかかった下部構造を支えてくださる方々は、厳しさとのギャップにシラけてしまうのではないかと思います。

この生活根幹の安定があることで音楽や芸術、スポーツが楽しみ遊んでいられる。安定すればするほどその文化が発展する。しかもその遊びを職業にできる社会と言うのは裕福な状態かなと思います。大半の方々が生活根幹に関わる仕事をされているので「自分くらいは無謀な夢を見てもいいよね。」と音楽や芸術やスポーツなどに没頭し、他の誰かに生活根幹の支えを委ねられる裕福さがこの国にはあるように思います。

頑丈な地盤の上で自由にさせてもらったことを考えるとエッセンシャルワークだったりライフラインに関わる仕事の方々には、今この歳になって色々気づきさらに感謝している。子が産まれ田舎を求めてここへ来た時、職を探すにあたっても「今まで音楽でたくさん遊ばせてもらったので」と言うことで真っ先に福祉を探したのもこの考えの影響です。面接時に「お金ではないです。いらないです。」と口が滑ったことを思い出します。

その整えられた地盤の上、好きな遊びに没頭できる場所がある。いつでもどこでもパーティーができるのも国の地盤の強さだと思いますし、思っていました。いつしか地盤が揺らぐと遊びは出来なくなって行く(遊びの規模を小さくする・近所で遊ぶ)のが僕の考えの筋です。地盤が安定するまでは遠くでは遊ばない、と言う感覚です。もしくは、今はあるもので我慢する。今まで溜め込んだ遊び道具、遊び古した遊びで我慢する。と言う感覚です。

僕のこの感覚だとオリンピックや音楽フェスなどは遊びの延長にあるパーティーであり、地盤の安定ありきの開催や規模の大きさを考えた開催が望ましかった。厳しい状態ならば、新しいことをせず、あるもので我慢する。公的資金であろうと私的資金での開催だろうと我慢の時期は必要かと思います。

「遊びじゃねーんだ、命懸けてんだよ。」と言われる方もおられると思いますが、僕も命懸けです。仕事にではなく生きることにです。命懸けで生きるとは、自分自身との関係だと思ってます。どれだけ自分に向き合い自分の考えに誠実でいられるか、ということです。命懸けという言葉に凄みを持たせて真剣さ誠実さを見出そうとするが、それは他者に伝える言葉ではない。命懸けというのは他者に押し付けるものではなく自分の中でしか成立しないもの。そう思っています。命を懸けた仕事だから優先しろというのは おかしな話になってきます。

水商売のように水が枯れる時も流れる時もあります。命を懸ける仕事なら枯れた時 流れた時を想定してじっと待てる忍耐力や縮小する判断が必要かと思います。他を見渡せば まだまだ人材不足の職種はたくさんあります。僕が就いている福祉会は万年人材不足です。それでも直向きに働く者がいます。

コロナが収束しても今後は看護や介護に就く人が確実に少なくなるだろうと思います。この厳しい状況がさらに続くと今回は耐え凌いだとしても看護介護医療関係は致命的。ドクターは別としても看護や介護、誰もこの職に就かなくなり地盤はますます不安定になることは間違いない。

その医療、看護、介護などは、前向きなニーズに対してサービスしてるわけでなく、病気や不調に対して必要としていることが多い。本当は健康でいたいが仕方なくニーズを出すわけです。音楽ファン、スポーツファン、芸術ファン、もちろんニーズがあると思いますが、仕方なくニーズを出しているわけではないでしょうし、酸素吸入が必要なわけでも、夜間のたん吸引が必要なわけでもないでしょう。音楽やスポーツはニーズを集めて(大勢に向けて)サービスすることができます。医療は、ドクター1人で診る人数も限られている。看護も介護も施設にニーズを集めてサービスをしてもその人数は限られているし、安全を確保するため法律で決められている。超高齢社会の看護や介護はコロナ以前から酷かったですが、今回で致命的、現場へのストレスはどうにか取り除く努力をした方が良い。他に任せるでなく我々が時を待ち感染拡大を止める意識で生活した方が良いと思います。

それぞれの夢があり、生活があり、楽しみや活動、大切な人たち、恋愛や学校などがあり、今しかできない体験をもう2年も逃しつつある。皆がそれぞれを優先させると地盤が崩れてしまい修復できなくなるのは避けたい。今は、騒がずに時を待つ。国には、業種に偏った補償ではなくベーシックインカムを希望する。今だけではなく今後ずっと。そして超高齢社会、年老いた国の自覚を。そこまで経済や防衛にこだわらなくても福祉の方が必要ではないか。


これらの考えはいつも僕を苦しめます。


僕は至る所で噛み合わなくなります。半径の狭い生活を一番大切にしていて、その狭さに他者の生活の広さと噛み合わなくなるのです。でも、この振り切った考えを持つ者がいることも知って欲しいです。それに僕はわかっています、このような振り切った考えだらけになると煌びやかな世界は無くなってしまいますので、誰とでも対話する扉は開いておきたい。

このような考えだけれど、就いてる職にこだわる方もたくさんおられることも理解します。どんな人どの立場からの意見も正論であるし、民主主義であらねばと思っています。正論を謳って賛成をいただくと嬉しいでしょうが、分断を起こすような正論をぶつけるのも間違っていると思うし、誰もが萎縮せず意見が述べられる社会になり、反対意見に傷つかないイラつかない精神教育も重要になってくる。そこからが本当の民主主義が始まると思っています。

色々な発言を見ていて思うことは、誤解されること誤解されていることも含めて自分であると言うことに覚悟が必要かと思います。言い訳がましく弁明したりせず、無理に誤解を解こうとせず、責任と自信を持てば良い。おかしなヤツだと思われても自分の良心は自分が知っているのだから。ただ、自分の良心を知っているかどうかは、自分と対話して確認した方が良い。これを怠っている人は意外と多い。

コロナ。こんな病気で亡くなる人が出てしまうことが悔しいです。たくさんの立場から意見が飛び交ってもう本質すら見えなくなっていると思いますが、僕らは生きることが必要で、生きていたら仕事や文化を楽しめる時が来る。そして自分だけが生きるのではなく生活範囲の中、配慮し感染拡大を防ぐことを意識したい。

地盤の強さに感謝を忘れず気兼ねなく遊べる時が来ると信じている。

まとまらずスミマセンでした。
音楽が好きで田舎者でもこんなヤツがいます。


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