ブギーポップアンブレラ/雨上がりの恋路3

 雨理恋路と折枝鼎が出会う数時間前、恋路は予備校のロビーのベンチに座り、自販機で買った炭酸飲料をちびちびと口へと運んでいた。
 同時に視線はロビーを通っていく生徒へと向けられている。
 この予備校になにか異変がないか、それを調べる為に恋路が予備校へと潜入しろという命令を受けてから三日が経っていた。
 今は夏休み前である為、夏期講習の申し込みに高校生がひっきりなしに予備校を訪れている。
 恋路もそんな学生に混じって夏期講習の資料を貰いに来た振りをすれば簡単に校舎の中に入ることが出来た。
 潜入なんて大仰な言葉を使う必要もない。ただ訪れるだけで予備校側が歓迎してくれるのだ。
「授業の見学も申し込みしていただいて、日程の会う日にいらしてください。教材なんかは事務室に来てくれればいつでも閲覧することが可能です」
「じゃあ、自習室を使ったりこの中の設備を使ったりすることも出来るのか?」
 予備校を訪れた初日に体験入学の申し込みを行なった際、恋路は手続きをしてくれた事務員に質問していた。
 すると事務員は笑顔で頷く。
「もちろんです。体験入学の期間内であれば、ここの生徒と同じように校舎内の設備は自由に利用できますよ」
 主な客層が高校生ということもあって、事務員は恋路のような少年であっても丁寧に接してくる。愛想良く丁寧に振る舞えば、夏期講習で受ける講義の数を増やしてもらえるかもしれないと考えているからだろう。
 こうして恋路は体験入学の期間―――二週間となっているのだが、その間は自由に予備校内を動き回ることが出来るようになった。
 初日と二日目は興味はないが授業を受けてみたり、自習室を訪れたり、はたまた食堂はどうなっているのか定食の味の検証をしたりと色々動いてみたのだが別段変わった様子は見受けられなかった。
 漠然と異変がないか調べろと言われたところで、なんの変哲もない予備校に異変が都合よく転がっているわけもない。
 三日目にして恋路はなにに的を絞って調べればいいのかわからなくなっていた。
 調査のプロであるならば、もっと的確に行動出来たろうが生憎恋路はその手の心得はないし、探偵や警察といった調査のプロの覚悟も持ってはいなかった。
 それでも恋する少女の為になにかしら結果が出したい。
 恋路が今後の活動方針を考え直そうとしていると、恋路に向って手を振ってくる少女の姿が視界に入った。
「雨理なにしてんの? なんか暇そうっすねー」
 恋路の元に小走りで駆け寄ってくる少女は、派手な金髪のツインテールで、スカジャンにミニスカート姿という真面目な受験生ばかりのここでは若干浮いた容姿をしている。
「暇そうなのはお前の方じゃないのか?」
 恋路はベンチに座ったまま顔を上げる。すると少女は人なつっこそうな笑みを浮かべて恋路の隣に腰を下ろした。
「あっしは忙しいっすよ。今だって自習室に籠もって勉強してたんすから。雨理はこんなとこでなにしてんの?」
 少女は舌足らずな感じで「あたし」と言う為、どうも「あっし」と言っているようにしか聞こえない。
 けれどそんな一人称がなんとも愛嬌があって似合う、そんなところがある。
「俺はまぁ、休憩がてらどんな奴らが通ってるのか見てたところだ」
「なんすか、それー。趣味は人間観察っつー痛い感じのやつっすか?」
「お前に痛いとか言われたくない。あと趣味ではなくて」
 使命だ―――と言いかけて恋路は言葉を飲み込んだ。
 こんなギャルっぽい少女にうっかり口を滑らせるわけにはいかない。いや、彼女じゃないにしても恋路はここに通っている真の目的を言うつもりはなかった。
「羽鳥多摩湖(はとり・たまこ)―――お前、少し時間あるか?」
 恋路が隣の少女に尋ねると、多摩湖と呼ばれた少女は猫のように目を丸くした。
「それってあっしのこと誘ってんすか? もしかしてデートに連れてってくれるとか?」
 丸い瞳には輝きが宿り、興味津々といった様子だ。
 しかし恋路は溜息まじりに肩をすくめた。
「そんなんじゃない。ただこの予備校の話をお前から聞きたかっただけだ。別に羽鳥多摩湖から聞かなくても、他の奴から聞いてもいいんだが」
「そんな寂しいこと言わないで欲しいっすよ。私と雨理の仲じゃん。あっしら無二の親友っしょ?」
「いや、一昨日出会ったばかりのわりと他人だと思ってたんだが」
「一昨日出会って急速に距離を縮めた親友っす。そういうことになってるっすー」
 にー、っと笑みを浮かべて多摩湖は立ち上がると恋路の服の袖を引っ張った。
「いいっすよー、付き合ってあげるっす。今の時間なら休憩スペースが空いてるからそこで話そうよ。ジュースもおごってくれちゃっていいっすよ?」
「わかった、おごろう。情報料は必要だからな」
「やりぃ。あ、それと。私の名前、フルネームで呼ぶの止めて欲しいっす。なんか変な感じだから」
「じゃあなんて呼べばいい?」
「可愛い可愛い多摩湖ちゃんでどうっすか?」
「長いな。多摩湖でいいだろ」
「仕方ない、それで許してあげるっす。でも私の名前を呼ぶ時は心の中で可愛いーって付けるのがルールっすから」
「そこまで自分の容姿に自信が持てるってのはある意味すごいな。呆れるを通り越して感心する―――さて、じゃあ行くか多摩湖」
「うっす!」
 と元気に返事をした多摩湖の後に続いて恋路はベンチから立ち上がり休憩室に向って歩き始めた。

 恋路と多摩湖の出会いは実に唐突なものだった。
 昨日、恋路が昼過ぎの食堂で遅めの軽食を食べていると、サンドイッチのセットが載ったトレーを持った多摩湖が声を掛けてきたのだ。
「なんか見かけねー顔っすね」
 いきなり声を掛けられた恋路は自分が食事をしていたテーブルのすぐ脇に立っている多摩湖へと視線を向けた。
 予備校という場所に似合わない金髪のギャル、なんだか軽薄そうな奴。
 それが恋路が多摩湖に抱いた第一印象であった。
「もうすぐ夏期講習が始まるからな。見かけない顔ならそこら中に居るだろ」
「それもそうっすねー。でもなんつーか、君は予備校って場所に似合ってないって雰囲気だったからなんか目に付いちゃったんすよね」
 声を掛けてきた理由はそれかと恋路は心の中で思った。
 同事に予備校に似合わないと思われたということはうまく溶け込めてないということだ。潜入しているのだからそれではまずい。
 自分のどこがこの場所から浮いているのかぜひ知っておきたい恋路だったが、質問をする前に多摩湖は恋路が使っていたテーブルに持っていたトレーを置いて、どかっと椅子に座ってしまった。
「あっしもそうなんすよねー。なーんかここだと周りが珍しい生き物みるような目で見てくるっつーか。確かに派手だとは自分でも思ってっすけど、別にギャルが大学目指したってよくないっすか?」
「ふむ、悪くはないと思う」
 なんて相づちを打ってしまった為に、多摩湖は恋路に向って目を輝かせながら自分の話を一方的に話してきた。
 電気工学系の大学に進んで技術者になりたいとか、一緒に住んでいる母に楽をさせてあげたいとか、意外にもまっとうな理由で大学進学を目指している話を恋路はたっぷり一時間以上は聞かされた。
 そうしてすっかり多摩湖に懐かれてしまったのだ。
「じゃあ、明日も来るなら私に連絡入れるっすよー」
 別れ際には強引に連絡先のアドレスを渡される始末だ。
 一方的に距離を縮められた感は否めず、しかし恋路にとっては予備校で始めて出来た情報を提供してもらえる相手でもある。
 容姿のせいで周囲に嫌煙されている多摩湖の予備校内での交友関係は広くはなかったが、多摩湖は恋路と違って一年前からここに通っていると言っていた。
 その点では予備校内のことを色々と知っているかもしれない。
 というのが恋路が多摩湖に話を聞こうと思った理由だったのだが―――。
「そんで私立理系コースの数学の講師に一人、こいつ絶対にヅラだろってやつがいるんすよね。もうそれが気になって授業が頭に入ってこないっつーね。って、雨理、聞いてるっすか? 相づちの数減ってない?」
「いや心配するな、聞いてる聞いてる」
 休憩室に移った恋路だったが、多摩湖から聞ける話は今のようなどうでもいいものばかりで、目当ての予備校内でのおかしなところという話題はちっとも出てこない。
 話を聞く相手を間違えたな―――と恋路がどうやって多摩湖から有益な情報を得ようかと考えていると、ふいに多摩湖の話題が今までとは違ったものになった。
「そういえば雨理って進路相談室って行ったことあるっすか?」
「ん? いや、まだないな。そういえばそんなのもあるとはパンフレットで見て知っていたけど」
「ただの進路指導じゃないんすよ。うちの予備校の進路指導担当って校内じゃちょっと有名だったんすよー。軽くファンみたいな生徒まで居るくらいに」
「たかが予備校の進路指導担当がえらい人気なんだな。指導が的確なのか? それともファンが出来る程容姿が整っているとか?」
「まぁ、どっちもっすねー。確かに役者みたいに整った顔はしてたっすね、あっしのタイプじゃなかったけど。それに助言っつーか言う事が的確で、相手の本質を見抜くみたいなとこがあって。まるで人の心を視てるみたいって言ってた生徒もいたんすよ」
「人の心を視る―――ね、確かに興味深い。俺も一度会いに行ってみたいな」
「あー、それは無理っすよ。その人、もう辞めちゃってるから。今、進路指導やってるのは事務員のおねーさんで、まぁ、それがその……」
 饒舌な多摩湖にしては言い淀んでいる。
 しかもその頬は薄く赤色に染まっている。
 恥ずかしがっているように、恋路の目には移った。
「なんだ、どうかしたのか?」
「いやぁ、親友の雨理だから教えるっすけど。私は前の指導担当より今の事務員のおねーさんの方が好きなんすよ」
 照れているのか多摩湖は恥ずかしそうにはにかんでいる。
「いや、もうほんと。最初に見た時はなんか自信なさげでおどおどしてるって印象で、そこがまた可愛いーって思っちゃって。進路指導担当になってからはあっし結構通っちゃってるんすよね」
「入れ込んでるってことか。お前、その事務員が好きなのか?」
 あまりにもストレートな恋路の質問に多摩湖は視線を泳がせあたふたしている。
「そ、そんな好きって程じゃ……なくはないけど。でもおかしーっすよね。相手、同性だし歳も離れてるし、好きとか嫌いとか言うような存在じゃないっていうか」
「好きなら好きでいいだろ。誰かを好きになれるってことは、尊い感情だと俺は思うぞ」
 恥ずかしげもなくそんな台詞を吐く恋路に、多摩湖は驚きの表情を浮かべたが同時に恋路に対して「こいつはなんだか信頼出来る」という感情がわき上がってきた。
 だから多摩湖はいつものへらへらした笑みをやめて恋路に顔を近づけた。
「じゃあ、その好きな相手の様子が変だから気になるってのも当然の感情っすよね」
「当り前だ。けど様子が変ってどういう風にだ? 疲れてるだとかストレスで押しつぶされそうになってるってとこか?」
「違うんすよ、その逆っす。どーにも自信に満ちてるようで。しかもそれを隠して以前と変わらないって風に振る舞ってる気がして。好きな相手なら少しの変化でも気付くもんすよね? だから他の人は誤魔化せても私の目は誤魔化せないっすよ。それにその人について変な噂も流れてて」
「……どんな噂だ?」
「なんでも―――不思議な力で悩みを解決してくれる、とかなんとか。まぁ、前の進路指導担当にもそんな噂があったから、ありがちな話なのかもしれないけど」
「…………」
 恋路は黙って多摩湖の話を聞いていたが、内心では―――かかった! とようやく釣果があった釣り人のような気持ちになっていた。
「でもなにがあの人を変えたのか、あっしが探り入れてみてもどうもわかんねーっすよ。これ以上、進路指導室に通い詰めても逆に怪しいっつーか、しつこい奴って思われるのは嫌なんす。もうあっしはどうすりゃいいんすかねー」
 テーブルの上に突っ伏すようにして、多摩湖は頭を抱えている。
 けれどこんな話を恋路にしている時点で多摩湖はどうすればいいのか考え付いていた。
 多摩湖は頭を抱えたままちらっと視線を恋路に向けた。
 つまり、多摩湖の狙いはというと。
「お前に代わってその進路指導担当の人を探って来いってことか? この俺に」
「えぇー、そんなこと一言も言ってないじゃないっすかぁ」
 と口では言っているが多摩湖は上目遣いに恋路へと期待の眼差しを向けていた。
 もしかすると多摩湖が恋路に声を掛けたのは最初から進路指導室に行かせる為だったのでは―――とすら恋路は深読みしてしまう。
 新顔の体験入学者ならば声を掛けやすいだろうし、進路相談室を試しに訪れてみるのもごく自然なことだ。怪しまれる要素はないだろう。
 普段は軽いノリをした頭の悪そうな少女だが、実のところ計画的に物事を推し進める切れ者なのかもしれない。
「どうしたっすか? 急に黙っちゃって」
「いや、なんでもない」
 恋路が首を横に振ると、座っていた椅子から立ち上がる。
 そして多摩湖に告げた。
「その進路指導室ってのは今日も利用出来るんだろ? お前の為ってわけじゃない、単純に俺も興味があるからな。進路指導担当の人に会ってきてやる。なにか気付いたことがあったらお前にも教えてやるよ」
「ほんとっすか! 雨理は頼りになるっすねー、さすが親友!」
「だから親友になったつもりなんてない―――」
 ふんっ、と鼻を鳴らして恋路は多摩湖の前から立ち去っていく。
 例え多摩湖に乗せられているだけでも、恋路は立ち止まりはしないのだ。
 彼に任務を与えた少女の為にわずかな糸口でも決して手放すことは出来ないのだから。

「雨理ーっ、ホントに助かるっすー! 行ってらっしゃいー!」
 相談室を出て行く恋路に向って多摩湖は大げさに両手を振って送り出したが、恋路は振り向くこともせずに相談室の出入り口のドアを開けて出て行ってしまった。
 その様子を相談室を利用していた数人の生徒たちは目にしていたが、あぁまたあの派手な女が騒いでいる、といった程度にしか認識せずにすぐに多摩湖から視線を外した。
 派手で目立つ多摩湖だが、この予備校内では彼女は目立ってはいるが深く関わろうとしてくる者はいないという、ある意味ではなにをしていようがスルーされる存在であった。
 それは彼女があえてそうなるよう『演じて』いるのであって、髪の色も派手なファッションも、そして良く通る明るい声も全ては作り物であった。
「定時報告を開始します」
 誰も使っていない、電灯すら付いていない空き教室の暗闇の中に立つ多摩湖は、ポケットの中からチョークほどの大きさの円柱型の真っ白い物体を取り出すとそれをそのまま口元へと近づけた。
 それは特殊な通信端末であり、多摩湖以外の声帯には決して反応せず仮に他の誰かが手にしたところで端末として利用することは不可能な代物だった。
「こちら『ペンギン』。目星を付けていた調査対象に対し、サンプルとして少年を一人向わせることにしました。調査対象に接触した少年にどのような反応もしくは変化が起きるか観察を行なおうと思います」
 普段の口調とはまるで違う、整然としていてまるでロボットが人工的に話しているかのような声色だった。
 多摩湖は通信端末に定時報告をしているが、端末を通して多摩湖に語りかけてくる声はない。一方的な報告のみが目的で、もしなにがしかの指令が多摩湖に向けられる時は端末を通じてではなく指令を携えた使者がやってくるのが通例となっている。
 しかし使者は時として多摩湖のような末端の調査員を用済みだと判断した上で抹殺を目的として現われることもあり、多摩湖はいついかなる時でも自分が抹殺の対象になることを懸念して動かなければならなかった。
 それが多摩湖が属している統和機構という機関の冷徹なる姿勢であり、コードネーム『ペンギン』の名を持つ合成人間である多摩湖にとって組織からの命令は絶対なのである。
 けれど多摩湖はそんな絶対的存在である機関に対して反逆とも取れる感情を抱いていた。
「ふぅ……」
 定時報告を終えた多摩湖は通信端末をしまうとため息を吐いた。
 そして暗い教室の中で考え事に耽る。
(折枝鼎がなにかしらの能力に芽生えているのはほぼ間違いない。雨理恋路というサンプルで改めて試すまでもなく、彼女はMPLSだ。組織に報告すれば私は下っ端の調査員よりも何ランクも地位が上がるはず……でも)
 多摩湖は始めて折枝鼎に接触した時のことを思い出すと、彼女がMPLSだと上層部に報告するのをどうしても躊躇ってしまう。
 何故なら多摩湖は本当に鼎のことを―――好きになってしまったのだから。
「あなたの親友はきっと自らの信念を貫いて行動したんです、だからあなたがその死を背負うことはありませんよ」
 それは鼎がまだ進路指導室に配属される以前のことだった。
 偶々、事務室を訪れていた多摩湖に対し鼎はそっと諭すようにそう囁いたのだ。
 まるでエセ霊能者が言いそうな言葉だったし、まるで検討違いなものであったなら多摩湖も鼎に対しておかしな事務員も居たものだという感想しか抱かなかっただろう。
 しかし多摩湖の胸の中には鼎の言葉に思い当たるものがあり、そしてなにより―――。
「あれ……私」
 多摩湖の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
 彼女がずっと胸に抱えてい後悔、それは彼女が一方的に親友と呼んでいた同僚の死についてだった。
 合成人間である多摩湖の同僚とはすなわちその人物も同類であり、多摩湖はその親友へと頻繁に指令を伝達する役目だった。
 そしてある日、多摩湖が伝達した指令を遂行しようとし親友は死を遂げた。
 少年少女を商品として取り扱う非合法組織に対し正義感により命令無視の行動を取り、多摩湖の親友は統和機構の暗殺者を差し向けられて死亡した。死体も残らないような死に様であったと聞いている。
 それからというもの多摩湖は親友の死が自分の責任であるように思えてならなくなった。
 伝達した指令の内容を自分がもう少し深く読み解いていれば人身売買組織のことも事前に知れただろうし、知ったのなら正義感の強い親友に忠告の一つも言えたはずだ。
 自分の至らなさによって親友を失った―――それが多摩湖の胸にいつまでも挟まり続ける後悔の正体だ。
 それが何故、鼎がそのことを知っているかのように話掛けてきたのか、この状況を判断するよりも先に鼎の言葉が胸の中へと染み込んで、その時にはもうたまらない気持ちになっていた。
 多摩湖が予備校の事務室を訪れていたのはただの気まぐれで、予備校が建っている場所を含めた周囲一体に異常であったり奇妙であったりする事象がないか注意深く観察する、それが合成人間ペンギンが負っている任務だった。
 多摩湖は適当に町をぶらつくのにも飽き飽きして、入学生募集の旗を立てていた予備校が目に入り、暇つぶしに事務室で入学の手続きでもしてみようかと思ったのだったが、そこでまさかの発見だった。
 胸に抱えた後悔をまるで見てきたかのように口にし、助言を与えるというまぎれもない異常な能力を持つ事務員がそこには居たのだ。
 折枝鼎はMPLSである可能性がある。
 そう判断したのなら迅速に報告するのが多摩湖の役目なのだが、多摩湖は自分の役目も忘れて止めどなく溢れる涙を必死に拭っていた。
 鼎は自分の言葉がこれほどまでに多摩湖の気持ちを揺さぶったことに驚いたが、目の前の小さな少女に対しなにか出来ることを考えた結果、そっと頭の上に手を置いた。
 そして多摩湖が泣き終わるまで、ただただなにも言わずに彼女の頭をなで続けたのだ。
「うぐっ……」
 涙を流し、頭を撫でられ、それだけで多摩湖は報われた気がした。
 親友を救うことも出来ず、組織の末端として使い捨てられる自分の人生にも、温かな幸せな時間というものがあったのだと胸を張って言える。それが今という瞬間なのだと多摩湖は思った。
 その時から、多摩湖は鼎について虚偽の報告をしようと決めたのだ。
 組織に対する裏切りなのは明確だが、多摩湖は鼎の存在をあえて組織に情報として与えその上でまったく注目するに値しない存在だと記録させることにしたのだ。
 鼎のことをまったく報告しなければ、それはそれで別の合成人間に発見される可能性もあるからこその判断だった。
 恋路を使ってまずは実験を行ない、その実験結果がどんなものだろうと『異常なし』と組織に報告する回りくどい方法をとって、組織が鼎に目を付けないようにする―――それが末端の調査員である多摩湖が思いついた鼎を守る方法だ。
(鼎には誰も手出しさせない。私に幸せな思い出を与えてくれた彼女の事はなんとしても―――統和機構だろうと出し抜いてみせる)
 報告を終え空き教室から出た多摩湖は、今頃恋路が鼎のカウンセリングを受け彼女の能力に気付くことなくけれども確実に影響を及ぼされているであろうと予想した。
 多摩湖にとって恋路はたまたま目を付けただけのただの少年、MPLSである鼎に抗う術はない。
 けれど実際の恋路と鼎の出会いは、多摩湖が想像するよりも苛烈なものとなっていた。
 なにせMPLS同士の邂逅なのだ。
 場合によっては街一つ消えるような―――いや、それ以上の、世界の危機に直結するような事態となっていてもおかしくはない。
 世界の危機とは特別な舞台の上でしか起こらないものではなく、どころか日常の平行線上、地続きの場所にぱっと現われるものだ。
 まさに今、この瞬間がそうだとは当事者であってもわからないけれど―――。

つづく。

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