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飲めない酒に学ぶこと

酒を飲めないことがコンプレックスじゃないかと言えば嘘になる。

しかし、飲める人には感じることの出来ない酒の一面を感じることができているのではないかと最近では思うようになった。

例えるならば私にとっての酒は苦手な人のようであり、乗り越えたい仕事のようであり、思い出したくなかった過去のような存在である。でも苦手な人も、乗り越えたい仕事も、思い出したくないことも、避けては通れないのが人生であるように、私のような人間の前にも酒はあるのである。

私はときどき酒の入ったグラスを見つめながら思う。こいつだって俺のことが嫌いだろうなと。永遠に交わることのない二つの個体がそこにはあるのだ。しかし、私にとってはそんな存在である酒を好きな人がいる。たくさんいる。なければ生きていけない人だって少なくない。

蓼食う虫も好き好き、そう言ってしまえばそれまでだけれども、酒は嫌われたり好かれたり、それはそれで大変なのだなあという気持ちにもなってくるのである。

ファンの期待には応えなければならないし、アンチからの嫌悪感にも耐えなければならない。まるで一時の前田敦子だ。もし酒が物を言えるなら「お酒のことは嫌いでも、飲み会のことは嫌いにならないでください!」と私のようなアンチに言いたいところだろう。

たしかに酒は「夜のセンター」だ。喜びや悲しみ、成功や失敗の真ん中にいる。酒はその重圧を背負ってきた。それこそ酒を飲みたくなるくらいの重圧に違いない。一方でウーロン茶は渡辺麻友である。まず嫌われない。一定のファンに熱狂的に推されている。いいオッサンになればなるほど「まゆゆ推し」には気恥ずかしさが伴うところもウーロン茶である、などと比喩のつもりが主題が変わりそうなので話を酒に戻すけれども、つまり私は最近になり、前述のような酒が抱える人気者ならではの悩みに気がついたのである。

飲めない私は君の良さを一生理解することはない。自分の良さを理解してくれない人がいることはツラいだろうが、みんなに好かれることなどできないし、それは君に個性があることの裏返しでもある。それでも私はこれからもたまには君を飲むだろう。そのたびにお互いに「やっぱり合わないね、俺たち」と言い合うだろう。でも分かる。君にも悩みはある。そして君を必要としている人たちのことは好きだ。だから永遠に交わることのない二つの個体だとしても、同じ世界にいることを認め合おう。喜ぼう。

嫌いだからといって、合わないからといって、理解を諦めてはならない。

#コラム

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