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記憶の中できっと主将は

高校の時の友人たちも読むと思うと書きづらいのだけれど、最近思い出して改めて感銘を受けたことがあるので書き留めておきたい。

あれは高校三年の夏であった。私の高校は奈良女子大学文学部附属高等学校という男子からするとふざけた名前の学校であったが、実際に優秀なのは女子で男子はどこか肩身の狭い思いをしていた。

しかし、そんな学校にも野球部はあって、高校最後の夏は高校最後の夏だった。私はそのときにはもう部活(テニス部)を辞めていたけれども、友人が野球部の主将をしており、最後の県予選が迫っていた。私は高校二年のときにノリで(正しくはモテたくて)生徒会長を務めていたせいで、あることを依頼された。それは野球部の応援団を組織してほしいという依頼だった。

奈良女子大学附属である、当然「応援団」などという組織はもともとも存在していない。しかし私は友人のためにという想いからというのは嘘で、部活も生徒会も終わったのにさほど受験勉強にも身の入っていなかった時期にいい言い訳ができるというくらいのノリで(正しくはモテたくて)「あ、いいっすよ」と応援団を引き受けた。

だが、引き受けたものの何をどうしていいか分からない。決して甲子園に行けるような野球部ではなかったが、彼らが毎日厳しい練習に耐えてきたことは知っていた。引き受けたからにはその努力に応えられるものではなければならないと一瞬は思ったものの、背伸びをしてもよくないと思い直し、まずは自分たちが楽しむことだなと半端な進学校らしく自己啓発本のようなコンセプトを立てた。そのコンセプトは今様に言えば「なんか高校生らしく、応援団とかやってみたい。」というコピーで人を集めるようなお気軽感を売りにするしかないことの裏返しでもあった。

そして何とか人をかき集め、吹奏楽部(たった十数人)、チア(をやってみたい子)、応援団(ただ声を出す子)などを組織して(頭を下げて)、私たちは抽選会を待っていた。当然、初戦突破がまずは目標である。つまり抽選会はもう初戦と言ってもいい。学校にいた私に連絡が入る。私は耳を疑った。

初戦の相手は、T高校。

何も初戦からあたらなくてもいいその年の県下の強豪校である。「よりによって」と言っていい相手であった。いくら高校の部活は教育の一環とはいえ、教育の域を超えて野球をしている相手と一回戦で対戦することから私たちは何を学べばいいんだろう。

私はその夜、友人である主将の気持ちを思った。三年間の成長をぶつけるにしてもその成長を感じることを許さないほどの相手かもしれない。その抽選結果に一番驚き、責任を感じているのは彼だ。いやそれでも精一杯応援しよう、俺たちがいるぞ。私はそう心に決めて、さてヤンジャンでも読もうかと手を伸ばしたとき、はたと気がついた。差があるのは何も選手たちだけではない。応援団にも大きな、それこそ選手たち以上の差があるのではないかということに気がついたのである。

私はテレビで見かけるあのアルプススタンドの大応援団を思い出した。一糸乱れぬ掛け声。巨大な横断幕。そして厳めしい学ランの団員たち。何でも安請け合いするのは本当によくない。

「あ、いいっすよ」。相手方の応援団長がこんなノリで引き受けているはずがないのである。しかも当時の私は長髪で痩せていて当時流行っていたノースリーブなんかを着ていた。もう一度言うが、私たちの学校は奈良女子大学附属である。こんな奴が応援団長。イメージ通りなのである。むしろ笑わせにきているのかというくらいイメージ通りなのである。学校として恥をかく可能性があるのは私だった。そして高校最後の夏は来た。

事前に知らされていなかったのだが、試合前に団長同士の挨拶というものがあり(知らされていたら断っていた)、球場前に向かうと案の定「君はなぜ部員じゃないのか」と問い詰めたくなるほどに逞しい学ランがそこにはいた。彼は私のことを何だと思っただろうか。それでもさすがは硬派な団長である、感じたであろう疑問を顔には出さず、握手を求めてきた。その高校生らしからぬ大人の対応。きっと彼は今頃どこかの世界で名を成しているだろう。

試合が始まった。スコアボードには「女大附」という何かの間違いのような名前。案の定、即席の応援はすぐにただの観戦となったけれども、それでも私たちは私たちなりに声を枯らしていた。しかし、まず塁に出ることすら難しい相手なのだ。コールド負けに向けて試合は「順調」に進んでいった。

何回の攻撃だっただろうか。友人である主将が塁に出たのである。ヒットではなかったが何度とない出塁に、私たち応援団は俄然盛り上がった。正直勝てるわけがない、それでも一点くらいは返してやろう。初めてグラウンドとスタンドがひとつになった気がした。次の打者がバッターボックスに入る。強豪とはいえ、相手も同じ高校生。何が起きるかは分からな、えっ!?

私だけでなく、味方の全員がそう思ったはずである。一塁にいた主将が走ったのだ。盗塁を試みたのだ。断わっておくが彼は決して俊足ではなかった。戻れ。そう叫んだ瞬間にはキャッチャーが二塁に向けて投げたボールが届こうとしていた。その送球のスピードはプロ野球のそれであった。戻れえ。後から聞くと盗塁自体サインミスだったのだが、私たちの主将は止まらなかった。もう送球が届いている二塁に向かって道半ばを全力で走っていた。

いや、きっと分かっていた。あいつは分かっていた。ゆくゆくは商船大学を首席で卒業して大船舶会社に入り、世界中の海を巡ることになる優秀なあいつは絶対に分かっていたはずだ。アウトになるために走ることのバカバカしさを。人の言うことを聞かず走ることのバカバカしさを。

しかし、目的を失った彼の数秒の全力疾走は今でも記憶しているほどに美しかった。他人の行動だけれども、私にとっても青春の1ページになるほどに美しかった。

絶対に勝てない相手、最後の夏、控える受験勉強、塁間の距離、痛めた膝、少ない応援団、踏み出した第一歩、ベンチに飛んできた蝉、聞いたことのない歓声、矢のような送球、世界の中心へ、止まれない、止まったら終わる、終わらせない、野球では負ける、でも勝負は終わらせない、まだまだ俺たちはこれからだ、アウトッ!!!

「という話を書いたけどどう?」と久しぶりに主将であった友人に連絡をして確認すると、彼はこう答えた。

「俺が盗塁失敗したんは、二年のときやで」

過去とは、美しい化け物である。

#コラム

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