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LEONIEとマイレオニーの旅 07

ここで再び、日米の往復を繰り返しての作品づくりのメイキング・ストーリーに戻りましょう。
マイレオニーができた時点は、まだ資金調達も整う前の段階で、その段階を映画製作の専門用語では、Development=「企画開発」と呼ばれます。
2003年の春にレオニー・ギルモアの映画をと思い立ってから3年が過ぎ、その間も沢山の人と、出会いと別れの連続でした。

企画開発期の出会いと別れ

映画もテレビドラマも、そして劇場で上映されるお芝居も、「ドラマ」と名づけられるものの要は「脚本=シナリオ」です。優れたシナリオがなければ、資金調達が叶わないばかりか、名のある俳優を口説くこともできません。特に今回の作品は、アメリカ女性が主人公の映画ですから、アメリカ人にとって説得力のあるシナリオが用意される必要がありました。
『ユキエ』の時の新藤兼人監督のように、名実ともに優れたシナリオライターにお願いすれば事は簡単なのですが、1900年代初頭の日本と米国を舞台にこの物語を書ける人は日本人なのか、アメリカ人なのか。それは難しいところです。
そしてシナリオは、企画者であり監督をする私自身が気に入るシナリオでなくてはならず、有名な人を雇うには、まだ高額なシナリオ料を払うお金もありません。
企画開発が始まった当初は『ユキエ』の時に新藤脚本を翻訳してくれたマイケル・テイーラーに英語台本にしてもらいましたが、それがそのまま今回の大型合作映画に通用するとは思えませんでした。
そこで最初にプロのスクリプト・ライターとして契約をしたのが、マイケル・ウォーク氏です。2004年11月のことでした。

マイケル・ウオーク

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