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LEONIEとマイレオニーの旅 05

心細さに耐えかねて

ニューヨークでは、著名なキャスティング・ディレクターと契約を交わし、彼女が紹介してくれた有名女優と会いと、今にも映画製作が実現しそうな気分になっても日本に戻れば、日米合作映画など「夢のまた夢」という状態が続いていました。
「企画が地味で、エンターテイメント性がなさ過ぎる」
「主人公の女性像が強過ぎる。観客の共感を得られるとは思えない」
「こういう形の日米合作を過去に実現できた人は一人もいない。従って、あなたのキャリアでやれるわけがない」
相談に行った日本映画界のプロたちの反応は一様に既成概念と前例主義、その世界の第一線で活躍する男たちには、「百万遍口説いても理解は得られないだろう」という状態が続いていたのです。それでも不思議なことに、私の思いを否定されればされるほど「これは、作らねばならない映画」との使命感が募るのでした。

そんな頃、「女性放送者懇談会」というテレビ業界の場で仕事をする女性たちの会に招かれて、イサム・ノグチの母親の生涯を映画にしたいという思いで日米を行き来していると、マスコミで働く女性たちの前でお話をする機会がありました。
そして数日後、その日の私の講演を聞いたという方から長い手紙が届いたのです。
「私は長いことフリーアナウンサーの仕事をしていて、50歳を間近に未来の仕事に対する行き詰まりを感じていました。でも、松井さんが50歳で映画監督の仕事を始めたとの話を伺って、大きな勇気を頂いた気がしたのです」と、そんな内容の手紙でした。私はそれを読んで嬉しくなり、早速、手紙の送り主谷岡理香さんにメールをすると、谷岡さんと彼女の親友のやはりフリー・アナウンサーだった斉藤弘美さんにお会いすることになったのでした。
2005年の夏頃だったと思います。
そしてお二人と話しているうち、このパワフルな女性たちを中心に、また新しい映画のために「『折り梅』応援団」のようなものを作って頂けたらどんなに心強いだろうと思い、その気持ちをお二人に正直にお話ししたのでした。
「わかった。日米合作の映画をつくるお手伝いなんて、なんだか楽しそう!」
と、お二人は初対面のその夜のうちに二つ返事で「松井久子の第三作を応援する会」の結成を約束してくださったのでした。

もうひとりではない

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