イスラームに学ぶ

 イスラーム社会をもっと知らなければ、と思ったのは、湾岸戦争(1990〜91年)がきっかけでした。イラクによるクウェート侵攻に端を発したあの戦争です。
 ブラウン管の前の多くの人たちは、圧倒的な軍事力を持つアメリカ(とその同盟軍)に蹴散らされるイラク兵を見て、「いい気味だ」と思ったに違いありません。事実、自業自得ではありました。でもぼくは、正直なところイラクよりもアメリカのやり口により恐怖を覚えたのです。アメリカ軍機は敗走するイラク兵の頭上に雨あられと爆弾を投下しました。虫けらを抹殺するかのように……なぜそこまでする? 彼らにだって家族はあり、日々の暮らしがあるのに。
 あの戦争を通じて、ぼくには、アメリカ人がイスラーム世界の人々を彼らと同じ人間として扱っていないように思われたのです。異文化に対する無理解と蔑視。それがあの無慈悲で過剰な攻撃を生み、日本の現代史に目をやれば広島・長崎への原子爆弾の投下を生んだのではないか。原爆の投下がドイツやイタリアではなく日本だったというのも、決して偶然ではないような気がします。
 もっとも、無理解という点では日本はアメリカ以上でしょう。いろいろ問題はあるにしてもアメリカは多民族国家で、日本よりは遙かに開かれた社会です。誰であれ、才能と努力は正当に評価される(らしい)。それに対して日本の社会は閉じていますからね。
 さて、ぼくが(ワケのワカラナイ)イスラームに興味を持ったとき、最初に手に取った本が片倉もとこさんの『イスラームの日常世界』(岩波新書)。一読たちまちファンになりました。蒙を啓く、というのは、このような書物のことを言うのです。なによりもごく普通の庶民の日常生活から素材をすくい上げ、すっきりと解きほぐしてそのよって来るところを指し示し、ぼくらの無知と誤解を鮮やかに正してくれるその手際がすばらしい。
 食べ物に対する禁忌だって少なくとも過去には理由があったのだし、ぼくらには頑迷そのものにみえるイスラームの法律も、片倉さんによれば、〈イスラーム法は、きびしさよりも、むしろ人間に対するやさしさをもつものであり、弱い人間たちの「努力目標」という意味あいをもつ〉、それだけ柔軟なものだということです。そういえば学生時代、文化人類学の講義で聞いたことがあります。コーランは当時としては先進的な社会科学の本だったのだと。
 そしてこれは同じ著者の『「移動文化」考』(岩波書店、同時代ライブラリー)でより詳しく語られていることだけれど、「動きのある社会」としてのイスラームと、「動かない方がいい社会」である日本文化との比較も面白く、豊富なフィールドワークに裏打ちされた考察は説得力十分です。
 片倉さんの書かれたご本を読んでいると、ぼくたちがイスラーム社会から学べる事ってとても大きなものがあるんだって分かってきます。スケジュールに沿って目標に向かいまっしぐら、ではない別の生き方、もっと楽しくもっと自在な人間の暮らしのありよう──そしてこれは、日本にだってかつてはあったはずなのだけれど──を、イスラームは迷路のような現代に生きるぼくたちに教えてくれるのです。

 「頑張る」以外の生き方もあるんだ。(1999.4.6)

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