旅立ち……「十五才─学校IV」を見て

 人はいつか旅立つのです。大人になるために。一人前になるために。「十五才─学校IV」の主人公・川島大介くんにとっては、屋久島にある縄文杉をめざしてのヒッチハイクが、一人前になるための旅立ちでした。

 現代の日本のように、学校教育を柱とした保育システムが厳密にできあがっている国では、子供たちはかえって一人前になるきっかけをつかむことができにくくなっているのかもしれません。何の疑問も衝動も抱かず、去勢された飼い猫のように平穏な日々を過ごすことも不可能ではないだろうけれど、すべてでもない。

 そういえばぼくにも、小さな旅立ちはあったのだと、映画を見ながら思い返していました。自分でもよく説明の付かない思いに駆られ、昭和四十九年、ぼくは大学生生活をある新聞社の奨学生という形で迎えることに決めたのです。大介くんが旅の途中さまざまな大人たちと出会い、彼らの人生に触れたように、ぼくもたくさんの(あえていうなら)特異な大人たちと寝食をともにしました。

 「十五才─学校IV」を見た人の中には、世の中あんないい大人ばかりじゃないよ、と指摘する向きもあるでしょう。いえいえ、そうでもないんですよ。ぼく自身、良い人ばかりに出会ってきましたから。

 ぼくの出会った大人たちは、たとえば不敬罪まがいのロクでもない言動で学校から見放されたようなおじさん。故郷を捨てて財産を作らずまた持たず、稼ぎを布団の下に敷き詰めて寝てるようなおじさん。昔は零戦乗り? 警官? だったと吹聴するおじさん。大晦日にやってきておせち料理を食べ、翌朝には姿を消したおじさん。夜遅くまで酒を飲み、酔いが醒めないままに配達に出て川底につっこんで重傷を負ったおじさん。話題といったら競馬に競輪・競艇ばかりのようなおじさん。

 ハチャメチャで、社会人としては失格かな。それでも、彼らはみな心底気持ちの良い人ばかりでした。裏表がないし、駆け引きがない。そんなおじさんの一人に、ある時「どうしてみんな良い人ばかりなの」と聞いたら、「本当のワルだったらこんなきつい仕事はしねえよ」って言ってましたっけ。藤沢周平にとって結核療養所が人生の学校であったように、ぼくにとっては住み込みの新聞販売店が人生の学校だったのです。

 屋久島で大介くんと同道することになったお姉さんは(一人で屋久島にやってきた彼女もまた、何かを探していたのだろうか)、大介くんに「一人前になること」が大切だと教えます。一人前になるってどういうこと? 縄文杉がそれを教えてくれるかもしれないね。そして「ありのままの自分を好きになること」が、一人前になる第一歩なんだよ……。

 こんなすてきな先生は、学校という枠組みの中にはいないのかもしれませんね。十五才の少年が今、本当に知りたいこと、必要なことを教えてくれる先生は。

 これは今の学校や先生が良いとか悪いとかいう問題ではなくて(本当はそうでもあるのだけれど)、人生にとって大切なことは、それを求める人が、求める旅の中で出会い、学ぶものなのだということです。知の体系として、教室の中で教え示されるものではないということなのです。その意味では、先生はいつも外にいる、一人前になるための学校は、外にこそあるのです。(2000.12.5)

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