「殻」あるいは「もの」

 池澤夏樹さんの小説は、寝ころんで読むことが出来ませんね。サン・テグジュペリのそれにも似て、「物語」としてのおもしろさ・ダイナミズムなどよりも、哲学的な空間・遠い眼差しを感じさせるんですよ。だからぼくは、ラインマーカーなしには読み進むことが出来ない。

 たとえば『花を運ぶ妹』(文藝春秋)。哲郎とカヲルの独白? が交互に掲げられ、頁を繰るにつれてようやくその全体像が起きあがってくるこの作品はいかにも難解。凡庸なぼくなどはその特殊な設定に違和感を持たないではないけれども、密度は相変わらず濃く、ぼくはそこかしこで沈思黙考です。──ホントはただボーっとしてるだけだったりしてネ。

食べたものの分だけむくむく大きくなれればいいけれど、きっと人の精神には外から余計なものが入り込まないようガードするための固い殻があるのです。それがあるために、その中いっぱいまで育つともうそれ以上は大きくなれない。一度はその殻を脱いで、裸の傷つきやすい状態に耐えて、もう一回り大きな殻が出来るのを待つしかない。

『花を運ぶ妹』(文藝春秋)、63頁


 森有正は、このように「精神が殻を持つ」ことを、〈「もの」になる〉と表現したように思います。それはよそから借りるわけにはいかないもので、出来るのを「耐え」て「待つ」しかないのです。少なくともそうでない限り、本当の「もの」にはならないのです。

 あるいは見当はずれかもしれないけれど、ぼくは池澤さんのお仕事に、小説家になった森有正を感じることがあります。(2002.03.31)

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