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国葬についてのメモ

この話、どこかで遠い昔に書いたよな……と思ってしらべてみたら、20年ほど前の「臨場哲学通信No68」で書いたことと共通する話でした。

そこでは当時の小泉首相が靖国に参拝するに際して、いろいろと小理屈をこねたり日付をずらすなどの小細工で、当時の常識のなかで「なんの問題もない」としようとしたことに対して、批判をしています。

ま、現在の政権予定であれば、なにをやっても「問題ない」ですまそうとするんですが、当時はまだ可愛げがあるというかなんというか、いちおう小細工はしてたわけです。

この小細工に対して、私としては「靖国反対」などと叫ぶわけでもないんですが、そのように小細工することによって、彼(ら)の国家思想的なもの、そのものが虚しくされるだけではないか、とそういう「批判」をしていたわけです。

ごまかしの中で、参拝する、ということで彼らがなにをしようとしているのかというと、単に「保守派の取り込み」をしたいだけということです。ようするにアリバイ工作みたいなもんですね。

そんなアリバイ工作を見抜けない「保守派」なる人たちもバカにされたものですけど、「参拝した」という形式だけは、「認知された」ものとして現在に引き継がれ、いまや堂々と参拝してはばからない、という世界が形成されている、そういった意味で、実存としては虚しいが、国家形式的には歴史にのこったということでしょう。

これ、まさに今起きていることそのものではないでしょうか。

いま、起きているのは、

内閣で閣議決定をして国葬を強行する。

しかし、国民に弔意は求めない。

つまり国葬の「形式」だけで、「心」は求めないので、やらせてよ、と。

国葬であることの「意味」や「実存」は虚しいものでよい、むしろどうでもいいわけです。しかし国家行事としてやったということは残したい、わけですね。

そんなの意味あるの?

だいたい、旧統一教会に関係した人の「言い訳」がほぼ同様に、「知らなかった」とか「頼まれただけ」とか、まさに「心」も「実存」もないものですから、それはもう白日の元にさらされたと思います。

そういった「空虚な」人々がほとんどの政党です。

それは彼ら自身の問題なので、それはいいとして(保守を自認する人たちは、もっと怒るべきですが)、問題はこの民主主義を自称する国において、国会の議論も経ないまま、強行されるということがおかしい、ということです。

民主主義とは、これまでも書いてきましたが、この「議論」を通じて、決定されるということです。これがないということ自体、あの悪い意味での「民主主義への挑戦」でしょう。

今からでも遅くないので、内閣葬なり、自民党葬に変更すべきでしょう。




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