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3.ビッカースタッフ脳幹脳炎【難病指定128】動かない体

かきだ詩

壁にぶち当たる度にエネルギーの消耗が半端ない。

高ければ高いほどコンフォートゾーン(安全圏)から動きたくなるなる自分がいる。

『もう、これで良いんじゃない?』

だけど心の奥から静かな声が聞こえる。

『もう少し行けると思うよ?』

今日も生活は平凡です。

動かない体


充電切れ間近のような携帯電話のように最後の力を振り絞って、ホテルのフロントに降りてマネージャーを待っていた。

何が起こったかわからないマネージャーは、急いで迎えに来てくれて、フロントでチェックアウトをしてくれ、その足で脳外科に向かった。

脳外科に向かった理由は、中学生の頃一度目が見えなくなって、運ばれた先が脳外科だったから。

心がそう伝えている気がして、マネージャーとタクシーに乗り込んで急いで病気へ。

瞼が上がらないだけじゃなく、まともに歩けなかったり、言葉が発せられなかったり“昨日までできていた普通の動き”ができなくなっていた。
筋肉量を上げる注射やら検査を受けたけど、お医者さん曰く
『ここでは精密検査ができないので、東京に戻ってから大きな病院で診断をしてもらってください。』そう言われ、そのまま空港へ向かい次の便の飛行機で東京へ。

その時の記憶はほとんどないけど、唯一覚えているのは車椅子で運ばれたことだけ。

当時は10万人に1人がかかる病でした。


羽田空港では、事務所のスタッフが迎えに来てくれて、その足で事務所の近くにある慈恵医大病院に連れて行ってくれた。
救急だけでは検査に限界があったみたいで、そのまま入院という流れになった。

次の日の朝から、いろんな科に回され、晩まで精密検査を受けた。
MRIとかCTとか、眼科では特にいろんな検査を受けた。

息をするのも精一杯。体は思うように動かない。車椅子で待合室で待たされる時間が長いと、疲れが酷すぎるので病室に戻った瞬間に失神するように眠りについていた。

3日目の朝、カンファレンスルームに呼ばれて、説明を受けた。

診断結果は【脳幹脳炎】聴き慣れない病名に驚くより前に笑いが込み上げてしまった。

私はシンガーソングライターになりたくて、頑張ってきた。やっと夢を叶える切符を手に入れた。

やっと始まる!そんな矢先のことだったからなのか?

説明をしてくれた担当のお医者さんにあたった。
「これまでこんなにやって来たのに、私はどうしたらいいのですか?もうダメなんですか?音楽できないんですか?」そんなこと言ってもお医者さんは答えられないのに、誰かに当たるしかなかった。

その日は病室に戻ってもただ涙が止まらなかったけど、心のどこかで“頑張らなきゃいけないという呪い”をかけつづけていた自分から解放された気分も生まれていたから、よくわからない感情の涙が溢れていた。

でも、音楽は諦めたくなかった。

それだけは心の中で満場一致していた。

さぁ、これからどうしよう。

私が経験した“脳幹脳炎”からの複視という後遺症や生活の話をどのタイミングでお話ししようかと思っていましたが、ミュージシャンデビュー20周年の2023年を機にゆるーく、マイペースに思い出しながら少しずつ書いていきます。少しでもお役に立てれば!サポートもよろしくお願いします!!