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【大乗仏教】仏護の帰謬論証

今回は、中期中観派の帰謬論証派である仏護(ブッダパーリタ)の理論化例を見ていきます。帰謬法(背理法)については、下記の記事をご参照下さい。

仏護は、龍樹の「アートマンに関する同一性と別異性のディレンマ」を次のように置き換えています。

龍樹のディレンマ:
もしアートマン(自我)が身心の諸要素(五蘊)と同一であるならば、それは生滅するものとなろう。身心の諸要素(五蘊)と別異であるならば、それらの要素の特徴のないものとなろう。

$${p}$$:
もし、自我が身心と同一であるならば、それは生滅するものとなる。もし、自我が身心と別異であるならば、それは存在しない。
$${q}$$:
自我は身心と同じであるか、別であるかである。
$${r}$$:
故に、自我は生滅するものであるか、存在しないものであるかである。

仏護の主張:
まず、身心の要素の一々またはその全体こそが自我であるということであれば、その場合には、自我は生滅するという性質をもつものとなるであろう。身心の要素はいずれも生滅するものであるからである。また、その場合には、身心の要素は複数であるから、自我も複数のものである誤りになってしまう。また自我を主張することが意義のないことになる。自我というものは身心の同義語でしかないものであるから。このようであるから、とにかく身心が自我であるということは合理的でない。
また、もし、自我が身心と別なものであるというならば、それは身心の特徴のないものとなるであろう。身心は生じたり滅したりする性質のものであり、自我は身心と異なったものであるから生滅という特徴のないものとなるであろう。もし、そうならば自我は恒常的なものとなるが、自我が恒常的ならば全ての行為をなすことは意義がなくなってしまう。というのは恒常であり、従って変化しないものに対しては何事もなされないから。このようであれば、また自我が存在すると考えることも無意味となる。その恒常な自我においては如何なるものも生じたり、滅したりすることができないのである。だから、自我は身心の要素と別のものとしてあることもできない。

仏護は、龍樹のディレンマの二つの選言肢の一つずつを帰謬法で論証しています。彼自身は帰謬を論証式として陳述しなかったのですが、あえて形式化すれば、第一と第二の帰謬式は、次のようになります。

$${p}$$:
身心の要素は生滅する。
仮定$${\bar r}$$:
自我が身心と同じである。(と仮定すれば、)
偽なる結論$${\bar q}$$:
自我は生滅する。(という不合理に陥る)

$${p}$$:
身心の要素の特徴(生滅という特徴)を持たないものは存在しない。
仮定$${\bar r}$$:
自我が身心と別である。(と仮定すれば、)
偽なる結論$${\bar q}$$:
自我は存在しない。(という不合理に陥る)

○問題点
帰謬法はインド論理学でも定言論証式の補助手段であって、それは含意的に、それ自身の小前提(仮定)と帰結との矛盾命題を反証します。上の二つの帰謬式を定言式に置き換えると、それぞれ次のようになってしまいます。

$${p}$$:
およそ、生滅しないものは身心の諸要素でない
$${q}$$:
自我は生滅しない
$${r}$$:
故に、自我は身心の諸要素と同じでない

$${p}$$:
およそ、存在するものは身心の諸要素の特徴をもつ
$${q}$$:
自我は存在する
$${r}$$:
故に、自我は身心の諸要素と別でない

つまり、仏護は間接的に上記の定言式を主張してしまったことになります。これは明らかに龍樹の真意と逆になってしまいます。

また、第一肢で「自我は心身の諸要素と同じでない」と主張したことになるため、第二肢で「自我は心身の諸要素と別でない」と主張すると矛盾してしまいます。二つの主張を合せれば本来の意味に近づくのですが、それでは理論としては成り立ちません。