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【大乗仏教】瑜伽行唯識派

唯識思想の体系化に重要な役割を果たしたのは、4~5世紀頃に活動した無著(アサンガ)とその弟である世親(ヴァスバンドゥ)ですが、この兄弟が現れる以前に唯識思想を展開させた「解深密教」および弥勒菩薩(マイトレーヤ)の著作として伝えられる数編の論書が存在していたと言われいます。「解深密教」は如来蔵思想を説いた「如来蔵経」「勝鬘経」等と共に中期大乗経典の一つとして紀元後200-400年頃に現れたと想定されています。

○弥勒菩薩(マイトレーヤ)と無著(アサンガ)
無著(アサンガ)は説一切有部において出家し、その頃、定(瞑想)を修めて欲望を離れた境地に達することができたものの、大乗仏教の空の教理を理解することができませんでした。無著は既に体得した神通力によって兜率天(六欲天の一つ)に昇り、そこに住む弥勒菩薩(マイトレーヤ)に教えを乞い、弥勒菩薩(マイトレーヤ)から大乗の空観を教わりました。無著の精神は再び地上に戻り、教えに従って思惟し、やがて空の教理を覚ることができました。無著の願いを容れた弥勒菩薩は夜ごとに地上に下り、大光明を放って多くの人々を集めた談法堂において『十七地経』を誦出し、その趣旨を説明したとされます。無著のみ弥勒菩薩に近付くことができたのですが、他の者はただその声を聞くのみであったとされています。こうして夜は弥勒菩薩の説法を一同で聞き、昼は無著が説法の内容について人々に解説を施すことが続けられ、四ヶ月かかって『十七地経』の説法は完了したといわれます。

弥勒菩薩(マイトレーヤ)が実在の人物であったか否かは明らかではありません。科学的には実在の人物であるのか、もしくは無著が弥勒菩薩を名乗ったのいずれかとなるでしょう。弥勒菩薩(マイトレーヤ)と無著の唯識思想には見解の相違がみられるため(理由は後の記事でお話ししたいと思いますが)、その点から筆者は、無著が弥勒菩薩(マイトレーヤ)の名を借りて説法したという説を取りません。弥勒菩薩(マイトレーヤ)を実在の人物と考えるか、天上界から降臨した存在と考えるかは、各々のお考えにお任せします。

○唯識とは
唯識の原語は動詞「知る」の使役活用語幹をもとにしてつくられた抽象名詞で、標識・記号などを意味しますが、唯識学派の述語として、それは心に映じ出された表象をあらわします。ただし、表象は対象に対応するものとして外界に存在する何ものかの標識なのではありません(超越論的観念論における表象とは異なる)。つまり、唯識とは、ただ表象があるのみで、外界の存在物はないという思想なのです。主観的存在と想定されるものは、生じた瞬間に滅する識が次々に継起して形成する「識の流れ」であるとします。同様に客観的存在と考えられるものも、識の内部にある表象に過ぎないのです。識が瞬間ごとに表象をもつものとして発生することが「識の変化」です。実際に存在するのは「識の変化」であって、それを人は主観的に自己あるいは客体的存在と想定しているに過ぎないと、唯識派は説きます。しかし、識は実体ではなく、認識機能そのものであるため、識が機能することが変化という作用名詞で表されています。

○瑜伽師(ヨーガ師)
説一切有部等の著書である「大毘婆沙論」や「倶舎論」に瑜伽師と称される人々が登場しています。彼らはアビダルマの煩瑣哲学に携わった学者達とは別に閑寂なところにおいて、瞑想を事とする比丘達であったとされます。煩瑣哲学とは関係なく、専ら修行のみを説いた「達磨多羅禅経」や「修行道地経」などがアビダルマ時代に存在していました。これらは瑜伽師達によって作られ、用いられたと考えられます。瑜伽行派の祖とされる弥勒菩薩(マイトレーヤ)の「瑜伽師地論」は同じ題名の原作なのです。そのことから推定されるのは唯識思想が瑜伽師の系譜に属する人々によって形成されたのではないかということで、瑜伽師の中に「華厳経」を重視して、三界は心の現れであるという思想を体験的に理解しようとした人々があったのではないかとも考えられています。彼らによって唯識観という観法が生み出され、その観法による体験が理論化されたのが唯識説であったと考えられているのです。