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【上座部仏教】「永遠の本体」と「刹那滅の作用」の哲学

まとまった休みが取れたことで、ここのところ毎日投稿ができています(笑)。さて、今回から上座部仏教(小乗仏教)の説一切有部の教説に入っていきたいと思います。釈尊入滅後の仏教は実に難しいです・・・。

【説一切有部】
アビダルマとは釈尊(仏陀)の教えを、釈尊の入滅後300-900年後の学僧たちが研究し、解明し、組織づけて一つの思想体系にまとめ上げた知的努力を意味します。上座部仏教の諸学派のうち、最も多数のアビダルマ論書を生み出し、そしてその多くを今日に残したのが西北インドに大きな勢力をもっていたと見られるサルヴァースティ・ヴァーディン学派であり、説一切有部と普通は漢訳されています。説一切有部のアビダルマ論書が多数世に現れた後にその業績を継承して、その上にさらに新しい進展を加え、およそアビダルマ論書の完成態というべきものを示したのがヴァスバンドゥ(世親)アビダルマ・コーシャ(倶舎論)です。しかし、倶舎論は説一切有部学説の忠実な祖述ではなく、時に世親の考え方、むしろ教義解釈の上で有部に対立したサーウトラーンティカ学派(経量部)のそれに通じると見られています。世親は後に大乗仏教の唯識派となります。

○アートマンは存在しない
説一切有部は「アートマンは存在しない」、即ち五蘊無我説を主張します。つまり、輪廻の主体であり、過去世の行(サンスカーラ)を未来世に持ち込む「真の自己」の存在を否定したのです。筆者の考えですが、釈尊の「五蘊非我」を「五蘊無我」と解釈したことが理由と思います。

しかし、釈尊は輪廻を認めています。真の自己が無ければ、輪廻も無いということになり、開祖の教えと反する事態になってしまいます。そこで、説一切有部は独特の輪廻転生観を作り上げていきます。その基盤が「永遠の本体」と「刹那滅の作用」の哲学です。アートマン(真の自己)といった主観的な本体は存在しないとしながらも、ダルマ(法体)=五位七十五法という客観的な本体は存在するとしたのです。

○経量部の刹那滅の思想
仏教には刹那滅という理論があります。この理論自体は仏教の全ての学派が承認するものですが、特に経量部(説一切有部から派生した学派)が最も強力に推進しました。

『全ての存在は心も物も生起した瞬間に消滅する。一瞬前の存在が原因となって、次の瞬間の存在という結果を生ずる。この因果の流れは続くけれども、原因と結果とは同一の存在ではない。いわば、全てのものは各瞬間に別のものとして生まれ変わって続いてゆく流れであって、そこに同一性を保って永続する本体はない。』

という理論です。経量部によると、例えば人は現在の一瞬に存在しているだけで、昨日見たこの人も、明日また来るかも知れないこの人(同一人物)も実は存在しないことになります。経量部によれば、人は一瞬一瞬異なった存在として生まれ変わっているとします。だから、一人の人間は厳密にはただ一瞬間、現在においてのみ存在するだけで、過去や未来には存在しないということです。故に、昨日見た同じ人が、本日また来るというようなことはない、同一人物であるが、異なった二人の人であるということになります。

○説一切有部の「永遠の本体」と「刹那滅の作用」の哲学
説一切有部も、もとより全てのものは瞬間的にしか存在しないこと=刹那滅を強調します。しかし、有部は同時にものには恒常的な本体があるとも主張します。説一切有部という学派名も、実はこの学派が全てのもの(現象の背景に存在する法体)は過去・現在・未来を通じて永遠にあると主張したことに由来しています。

「刹那滅」と「永遠の本体」という、この二つの相反する理論を共存させるために説一切有部は非常に努力を払ったのです。有部が説くモノの中に存在する恒常的な本体とは客観的な本体、即ち法体(ダルマ)であり、法体は過去・未来・現在の三世に存在(実在)するとします。ただし、ここでの三世の区分は有部の正統と見なされたヴァスミトラ(世友)説によれば位相の差異なのであって、その位相は作用によって決定されるということです。あくまで、法体がまだ作用していない状態を未来、現に作用している状態を現在、作用し終わった状態を過去と見なします。このように定立される法体を恒常な自性を保持する法と存在の位相とに二分することで、法体は固有性を確保しつつも、三世においてはその状態は刹那滅に変化すると規定したのです。煩悩の断によって得られる涅槃も、このような三世実有説に基づいて説明されます。つまり、有部にとって煩悩の断とは煩悩の存在そのものの生滅を意味しているのではなく、煩悩と心相続との結合関係の切断を意味しているのです。

○法体と業の担い手
繰り返しになりますが、説一切有部の場合、業の担い手としてのアートマン(真の自己・霊魂)のようなものを何も考えようとしませんでした。また、サーンキヤ学派やヨーガ学派のように内官・感官・微細元素が集まった有機体=リンガが業の担い手となるとも考えませんでした。つまり、次の生涯ではその世界・次元における無数の法体が集まって有機体が構成されているというように考えています。生きていたものが死ぬということは、無数の法体より成る有機体を構成せしめていた原因が消滅したので、結果として存在していた有機体としての法体の構成が解消されることになります。業(カルマ)というものも有部的に言えば、法体であるから、やはり因果関係によって支配されており、原因が消滅すればそれにしたがって結果としての業も消滅するわけで、故に、アートマンを考えなくても、例えば、ある生命が今人間であって死んで、猫に生まれるとします、そうすると、その生命が死ぬ時、その人間の肉体を構成していた法体が全部解散してしまいます。肉体的要素だけでなく、精神的要素もそうですね。そして、次に猫に生まれるという時には新たな猫の生命を構成する心身の法体がそこに集合して猫という生命体、即ち肉体的・精神的有機体を生み出すのであって、それは前の生涯が人間であった時に私を構成していた様々なダルマが残した原因が結果として、猫として現れる「法体の合成」を生んだと考えます。アートマン(霊魂)やリンガ(霊体)があって、人間の体から抜け出して猫の体に入るとは考えないのです。

有部の法体には「取」と「与」という考え方があります。取は「果を取る」ことで、意味は現在領域に生起した法体(作用を発揮する状態)が因となり、未来領域の法体(まだ作用を発揮する前の状態)を果として捕まえることです。取られたからといってその果の法体がすぐに現在へ生起する(作用を発揮する状態になる)わけではありません。一方、与が「果を与える」であり、取られた果の法体が現在領域へ生起する段階です。

法体は永遠に存在するため、過去世に作用し終えた法体であっても業(カルマ)として機能して、未来世の果を与えることができるとします。果を取ること自体は過去世で作用した際に終えています。有部は永遠の本体を設定することで業を次生涯に持ち込むアートマンが無い問題の克服を試みたのです。しかし、永遠の本体は釈尊の教えである諸行無常と反してしまいます。そこで、法体の状態変化に伴う作用の刹那滅を主張し、自派の理論が諸行無常と矛盾しないとしたのです。

今回はここまでにしたいと思います。アートマンを認めずに、輪廻転生の理論を完成させるのはかなり難しいことが分かりますね。次回は五位七十五の法体について説明していきたいと思います。