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【大乗仏教】唯識派 仏の三身・四智

仏の三身
仏陀(如来)に法身・受用身・変化身の三種を認める三身説は唯識派によって完成されました。ただし、初期大乗仏典である『華厳経』『法華経』において、既に如来の法身と化身という思想は登場していました。さて、三身の呼称には相違があり、「法身」に相当するものは自性身とも呼ばれます。そして、受用身は「報身」とも呼ばれますが、例えば阿弥陀如来が極楽浄土を持つように、仏の報身はその仏国土をもち、楽園の荘厳を具えた聖域において法楽を享受(受用)するとされますが、その場合、自ら享受するだけでなく、他者に享受させることをも含みます。変化身は応身・化身・応化身など色々な呼び方があります。これは歴史的な仏陀である釈尊を始め、この地上にあらわれる種々の化仏や権化を含みます。仏の法身は絶対の真理として常住ですが、受用身と変化身とは無著(アサンガ)の『摂大乗論』に従えば無常となります。

仏の四智
・清浄法界=光り輝く心?  =法身(自性身)
・阿頼耶識→ (転依) →大円鏡智=法身(自性身)
・末那識 → (転依) →平等性智=報身(受用身)
・意識  → (転依) →妙観察智=報身(受用身)
・前五識 → (転依) →成所作智=応身(変化身)

(無著の唯識観によると、)阿頼耶識の雑染分が転換されて、清浄無垢にしてあらゆるものをその真相において主客の分別なき形で映す、法身の大円鏡智となります。また、末那識(自我意識・染汚末那)が転じて、自と他、涅槃と生死の不二平等を見、大慈悲を生ずる平等性智となります。そして、第六意識(誤った思惟)が転じて、清浄なる思惟・観察・教化の作用をもつ妙観察智となります。この二智は無著によると、受用身に帰せられることになります。最後に、前五識(五感官の作用)は衆生救済のためにあらゆる為すべきことを成就する成所作智となり、変化身を現ずるとします。

阿頼耶識が現勢的な識の根拠をなしていたように、仏智はこの鏡のような智を根拠にしています。それは空間的な限定を離れて、清浄法界をその全体性において知り、また瞬間的な制約を受けることもなく、常に輝く智であるとされます。それは特定の表象をもつことがなく、それ故に一時にあらゆる事象を知ることができると言われます。

無形象唯識論と有形象唯識論
『原始仏典』・大乗仏典『般若経』において登場した「光り輝く心」を心の本質と認めながら、唯識派は輪廻的存在を見つめ、その根拠を追求し、阿頼耶識の転依によって真如(清浄法界)、即ち「光り輝く心」を自覚する道を明らかにしたことになります。
(※清浄法界、即ち光り輝く心=如来蔵は、後期大乗仏教である密教に登場する法界体性智の原点と考えられます)。

さて、「光り輝く心」を人間存在の本質とする点において、唯識思想は『般若経』・『中観思想』・『如来蔵思想』の系譜に連なっていますが、世親(ヴァスバンドゥ)以後の唯識派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいくことになります。所謂、有形象唯識論であり、阿頼耶識と七転識(形象)は存在し、純粋透明の光り輝く心は無いことを主張しました(無著・世親の頃から三性論解釈・認識論的な面においては既に有形象唯識論的な思想の原点が見受けられます)。光り輝く心を認めない有形象唯識論において、識の転依を適用した場合、大円鏡智が清浄法界を兼ねるものと考えられます。

これに対して、安慧(スティラマティ)は、心は本来、水晶のように透明なものであって、その中に捉えられるものと捉えるものという二元性がある限り、それは仮構されたものであるという見解をとりました。即ち、無形象唯識論を保持する立場です。有形象唯識派は経量部と合流して経量瑜伽派となり、無形象唯識派は中観派と合流していくことになります。