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【上座部仏教】有部の五位

説一切有部では、断つべき潜在煩悩として七随眠、細かくは九十八随眠を立てます。ただし、九十八とは潜在煩悩の数であるため、大まかに分類し直して「十随眠」とします。原始仏教では「五下分結」「五上分結」が断つべき潜在煩悩として重要視されましたが、有部では「十随眠」が重要視されます。

○十随眠

①貪欲:心に叶う対象に対する欲望・貪り。
②瞋恚:心に叶わない対象に対する嫌悪・怒り。
③愚癡:無明。同じ過ちを繰り返す愚かな衝動。
(有部は自己を認めないので、自己への無知とはできません。)
④慢心:自他を比較して思い高ぶる傲慢な心。
⑤疑惑:因果の法則など真理に対する猜疑心。
⑥有身見:「我」と「我がもの」という観念を離れない我執と我所執。
⑦辺執見:偏った極端なことに執着する見解であり、「我」は死後も常住であるとの常見と、「我」は死後断絶するとの断見の二つの固執。
⑧邪見:法体の間に働く因果関係を認めない見解。
⑨見取見:誤った見解に執着して、それらを優れた見解と考えること。
⑩戒禁取見:誤った戒律・禁制・信仰などを涅槃に導く正しい道であると考えて奉ずること。

十随眠の詳細は下の図のようになります。

九十八随眠

○有部の五位
・順解脱分(三賢位)
準備的段階の初段階であり、解脱へと方向づけられた階位です。
三賢位(五停心・別相念処・総相念処)=戒・止・観を修習します。
・順決択分(四善根)
準備的段階の最終段階であり、煩悩のない世界の通達へと方向づけられた階位です。四善根位とも言います。
・見道
無漏の智慧によって三界の見所断の煩悩を断つ段階です。
・修道
無漏の智慧、もしくは有漏の智慧で三界の修所断の煩悩を断つ段階です。
・無学道
見所断・修所断の全ての煩悩を断ち切ってしまったところに出現する境地です。もう学ぶべきものがなくなったという意味で無学道と言われます。

【順解脱分(三賢位)】
▽五停心:精神統一の技術を会得する
 ・不浄観
  貪欲を抑制します。自身や他者の身体が腐敗・白骨化
  していく様を観想し、そこへの執着を断つことです。
 ・安般念
  尋・伺を抑制します。呼気と吸気を意識することで、
  意識を鎮静・集中させる瞑想です。
 ・慈悲観
  瞋恚を抑制します。四無量心の瞑想です。
 ・因縁観
  愚癡を抑制します。
 ・四界差別観
  我執を抑制します。
▽四念処観
 ・別相念処
  身体は不浄である、感受は苦性である、
  心は無常である、法は無我である、
  とそれぞれを個別に観察します。
 ・総相念処
  身体・感受・心・法を総体的に不浄・苦性・無常・無我
  であると観察します。

【順決択分(四善根)】
「有情」と「所得法」の煩悩の「得(成就)」を引き離す有漏の智慧を養う段階です。有漏の智慧が最高潮に達した時、無漏の智慧を獲得して次の段階である見道へ入るとします。
▽煖
火きり木を擦ると火が生ずる前にまず摩擦熱によって煖かくなりますが、煩悩を焼く火がやがて生ずる前触れになる善根がそれに例えて煖と呼ばれます。
▽頂
山頂や頭頂であるこの名で呼ばれる善根は未だ絶対不動のものではなく、再び失われることがありますが、そうした不確定な善根の内では最高位にあるとします。
▽忍
煖と頂にはまだ浮き沈みがあり、動善根と言われますが、この忍と次の世第一法はまったく動じることがない不動善根といわれます。(煩悩を焼く火が起こった状態)
▽世第一法
有漏の智慧が最高潮に達した状態です。

【見道】
見道に入って以後は、無漏の智慧によって煩悩を断ち切ってゆく過程です。まず、苦・集・滅・道の四諦を観察することによって八十八の見所断の煩悩を断ち、ついで修道に入って残りの修所断の煩悩を断ち捨てます。見道に入ってから修行者はもはや凡夫でなく、聖者となります。見所断の煩悩は理知の面での煩悩であるため、四諦の観知から生起する無漏の智慧によってたちまち断ち切られるとします。これらの煩悩を断つために働く無漏の智慧に二種があって「忍」と「智」と呼ばれます。まず、忍によって煩悩を断ち、即ち煩悩と心相続との倶生の関係を離れ、次に智によってその煩悩の断絶を確証し離繋を得ます。

【修道】
修所断の煩悩の場合は見所断と異なり、情・意の面での煩悩になるため、単に理性の上で了解しただけではそれを離れることになりません。ここでは知ることと断つことは別になります。分かっていたとしても、止められないというのが情・意の面で起こる煩悩に共通な性格です。修所断の煩悩は先に図示したように、三界に分かれて十種ですが、見所断の煩悩と違って情意的な煩悩はその一個一個を弁別して断ち切ってゆくというわけにはいかないので、煩悩の種類によっては差別を立てず、その力の強弱によって上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下の九品に分けます。(かなり複雑なので、詳細は省略しますが、無漏の智慧と有漏の智慧によって断っていきます。)

有部の無学道において、「有情(心身の法体集合体)」は煩悩の所得法を離れ、無漏の智慧や有漏の智慧を含む有漏善法と繋がった状態と考えられます。煩悩は道に反しているため、完全に断ち切られるのですが、有漏の善法はそうでないから、その得(成就)は非得(不成就)とならない、ただし、煩悩との関係が切れているため、所縁断が適用されて生起しなくなるといった説明がされますが、よく分からないというのが筆者の正直な感想です(笑)。とにかく、無学道の者が死亡した場合、無為法である「無漏の智慧」が最後に残り、それが涅槃となるものと思います。