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【上座部仏教】五位七十五法 色法

世親の『倶舎論』における五位七十五法、今回は色法に入っていきたと思います。色法、つまり物質です。古代インドの原子論も登場し、更に煩瑣になっていきます(笑)

○五位七十五法

▽五位七十五法の有為法(色法)
五根と五境は極微という原子であるとします。無表色は色法に含まれるものの原子によって構成されるものではありません。

○五根
①眼根:
色境を対象とする視覚器官であり、自身は眼識の対象となります。
②耳根:
声境を対象とする聴覚器官であり、自身は耳識の対象となります。
③鼻根:
香境を対象とする嗅覚器官であり、自身は鼻識の対象となります。
④舌根:
味境を対象とする味覚器官であり、自身は舌識の対象となります。
⑤身根:
触境を対象とする触覚・体性感覚器官であり、自身は身識の対象となります。

○五境
①色境:
{青・黄・赤・白・影・光・明・闇・雲・煙・霧・塵・長・短・方・円・凹・凸・平正・不平正・身表色}から成る視覚対象です。ここでの「明」「暗」が現象の世界にある物体と物体の間にある隙間であり空界(空元素)と呼ばれるものです。抵抗性・排他性を持ちませんが、生滅する物質的存在であり、虚空無為とは別物です。また、身表色とは身体的活動であり、三業の身業に該当します。有部では身業を色境に含めるのです。
②声境:
{生物発声音(語表色)・非生物発生音・会話音・非会話音・快音・不快音}から成る聴覚対象です。生物発声音の語表色とは言語的活動であり、三業の語業に該当します。有部では語業を声境に含めるのです。
③香境:
{快い香り・不快な香り・適度な香り・過度な香り}から成る嗅覚対象です。
④味境:
{甘さ・酸っぱさ・塩辛さ・辛さ・苦さ・渋さ}から成る味覚対象です。
⑤触境:
{滑・粗・重さ・軽さ・冷たさ・空腹感・渇き・堅さ<地界>・湿り<水界>・熱さ<火界>・動き<風界>}から成る触覚・体性感覚・臓器感覚の対象です。
 ●地界(地元素):堅さを本体とし、保持を作用とします。
 ●水界(水元素):湿りを本体とし、包摂を作用とします。
 ●火界(火元素):熱さを本体とし、成熟を作用とします。
 ●風界(風元素):動きを本体とし、増長を作用とします。

○無表色
基本的に全ての善悪の法体は生起の瞬間に必ず果となる法体を取ります。果を取る瞬間から果を与える瞬間までの余勢を保持して、与える瞬間に一気に発揮します。過去世に取った果が未来世に与えられることもあります。しかし、無表は善行為によって悪に対抗する習性(防悪の功能)が植え付けられる、または悪行為によって善に対抗する習性(防善の功能)が植え付けられるという形で現れるもので、一気に功能を発揮せずに作られた時から常に行為者について回るように存在します。ただし、無表は未来世に受け継がれません。また、前五識のいずれの対象にもならないので、法処(法境)に含まれます。
①語無表:
言葉における大きな善行為もしくは悪行為の余韻であり、未来に影響を与えますが、未来世には影響しません。業の余勢の影響であり、防悪の功能、防善の功能です。
②身無表:
身体における大きな善行為もしくは悪行為の余韻であり、未来に影響を与えますが、未来世には影響しません。業の余勢の影響であり、防悪の功能、防善の功能です。

法境(法処)を対象とする意根が説かれていないのが不思議です。釈尊は十八界の教えで、意識とは別に意根(意成身)を物質的存在として立てています。

○原子論
仏教で最初に原子論を導入したのは説一切有部と言われています。ヴァイシェーシカ学派からの影響もあったと思われます。しかし、有部の原子論はヴァイシェーシカ学派の原子論とは大きく異なるものでした。ヴァイシェーシカ学派、説一切有部、そして有部から分派した経量部の原子論を見ていきたいと思います。

●ヴァイシェーシカ学派の原子論について
世親は「唯識二十論」において、この原子論を「全体のように単一なもの」と表現しています。
多くの部分によって組成された全体は、部分とは別の単一のものであるというのはヴァイシェーシカ学派とニヤーヤ学派に特有の学説です。ヴァイシェーシカ学派が説く実体とは、多くの多数の実体を構成要素とするものと、構成要素としての実体を持たないものとに分けられます。後者は九種の常住の実体であり、その常住の実体の中に分類される地・水・火・風の原子は集合して諸種の実体(無常の実体)を新造します。原子の集合によって作られたものも全て単一の実体として存在性を持ち、それに固有の「語」によって言い表されるとします。要約しますと、原子とは原因としての実体であり、その集合によって作られたものは結果としての実体になります。更には、それ自体としては結果である実体も集合してまた新たな実体を造り出します。観念またはその観念またはその指標としての語はすべて存在するものと対応していると考えるのです。

●説一切有部の原子論について
世親は「唯識二十論」において、この原子論を「多数の原子が一つに凝集することなく、相互の間に間隙をもって集まったもの」と表現します。
色法は無表を除いて、多くの原子が集合して成り立っているとします。原子は微粒子ですが、立体的にそれを包む面を持ちません。多数の原子が集合して目に見えるものとなる時、個々の原子は互いに接近するだけで接触はしません。原子は物質の空間的な拡がりを分割した極限であるため、部分を持たないということです。仮に、面を持つとすれば、それを更に分割することが可能であるはずであり、有部の定義に背くことになるのです。従って、有部は二個以上の原子が接触する時、それぞれの一部が触れ合うことは有り得ないとします。しかし、二個以上の原子が部分でなく全体的に接触するとすれば、両者は全く重なることになりますので、ただ一個の原子があることと同じになってしまいます。

●経量部の原子論について
世親は「唯識二十論」において、この原子論を「多数の原子が相互に間隙を置かずに集結して、単一の原子には見られなかった一つの粗大な形象を持つに至ったもの」と表現します。
目に見えるのは原子の集まりであって、個々の原子がそのまま視覚器官によって見られることはないが、集まった原子の一つ一つは視覚的認識の原因となるとします。視覚対象である色境は顕色(色彩)と形色(形態)に分かれます。説一切有部の原子論に基づくと、青・黄・赤・白などの顕色も長・短・方・円などの形色もともに原子であり、本体であることになります。しかし、経量部はこれを否定し、青・黄・赤・白などの顕色は原子であり、実体であるにしても、形色は色彩原子の集まりによって生じた仮象に過ぎないとします。経量部は形の原子としての実在性を否定します。

○不簡別色(八事倶生・随一不滅)
古代インドの原子論は、現代化学を学んだ我々から見ると、違和感がかなりあると思いますが、このような原子論への否定も唯識思想誕生の一要因ではないかと思います。そのあたりは大乗仏教の記事でお話ししていきたいと思います。

さて、有部の原子論に話を戻します。『倶舎論』において、色法には八事倶生・随一不滅という原則が示され、その原則とは「地・水・火・風・色・香・味・触の八種は必ず同時に(セットで)現在へ生起して、物質的現象として顕現する。」というものです。この「八種」をどう解釈するかは意見が分かれるところで、①上記の八個の原子がセットで生滅する説、②地・水・火・風という四大種のセットがあり、そのセットに色・香・味・触の原子が一つずつ置かれていて、合計二十個の原子が一緒に生滅する説、の二つがあります。筆者は②の説をとっています。②は分かりにくいので、図を作りました。

図において、上部が色法が生起・消滅する際に必ず相伴う八種です。下部は必要に応じて加わってくるユニットの例です。このように八種原子集合体になると、物質は空間的な拡がりを持つようになるというのが『倶舎論』における有部の色法と考えられます。有部は原子が集合する時、原子同士の面は接触せずに間隔を空けて集結するので、上図のようにしました。また、物の質的な差別は原子の質的な差別に由来するとし、あるものが堅いのはその物の地原子の勢力が強いためとします。八種の要素の原子が混ざり合っている際、地の原子が他の原子よりも勢力が強ければ、堅さだけが感知されるということになります。

長くなりましたが、今回はここまでになります。次回は心所法に入っていきます。