世理ナズナ
どこかで見たことのある書き出しの夢日記集。
原稿用紙5枚以内のショート・ショート集。
シリーズもの以外の作品置き場。
他サイト様の企画に参加させていただいた作品集。
月も星もない闇の中でも波が泡立つのはよく見えた。流れた血も焼けた肉も何もかも飲みこんで、海は今日も変わらない顔をしている。 奥の部屋ではきっともう酒宴が始まっているのだろう、きちんと閉まらない扉の向こうでちらちらと明かりが揺れ、賑やかな声が漏れ出てきていた。今日襲った船は久しぶりの大きな獲物だったから宴の盛り上がりも格別だ。こんな日に見張りの番だとは運の悪いことだとさんざんからかわれたが、自分はこのちいさな部屋での一人の見張りを好んでいた。 切り立った岸壁に穿たれた窓か
こんな夢を見た。 薄い靄の中を、自転車を押してゆっくりと歩いている。靄は冷たくて湿っていて、微かに赤みがかっていた。肌をかすめるように流れていく靄の向こうではたくさんの人がざわめいている。靄を通して聞こえてくるそれらの声も重く湿り、何を言っているのかはわからなかった。 進むにつれて周りから聞こえてきていたざわめきは打ち寄せるように大きくなり、いきなりその声に吹き払われるように靄が晴れた。途端に一面のピンクが視界に飛び込んでくる。長く真っ直ぐに伸びる道が目の前に現れ、その
どさりとゴミの中に落ち込んだらもうもうと埃が舞い上がり、しばらく咳が止まらなかった。飛び込んだときにはそこまで考えていたわけじゃなかったけれど、シズハが言っていたようにもしナラクがずっと底まで続いていたら、咳どころじゃすまなかったに違いない。落ちている間はずいぶん長く感じたけれど、見上げてみたらさっき飛び込んだ扉の位置は、すこし足場でも作ったら届きそうなくらいの高さでしかなかった。でもたとえ上にあがれたとしても、またあそこに戻ってあいつらに殴られるのはごめんだった。 扉の
知らぬうちに家に恋文が届けられていた。 洒落た紙を使うでもなく花を添えるでもなく、ただ無造作にぽんと三和土に置かれていたその真っ白い紙は、読むまではそうと知れなかった。宛名もなしに唐突に書き出されていたが、文の最後に幼馴染の娘の名が記されていたので自分に宛てられたものであるのがわかった。 少し前に娘は越しており、今は隣村に住んでいた。七日の間だけ嫁ぐと言い残してふいに去ったという話を聞いたのは昨日のことだった。娘はいまだに字を知らなかった。記された流暢な字には見覚えがあ
こんな夢を見た。 誰かと手をつないで、旅立つ人たちを見送っている。つないだ手は冷たく乾いていて、なんだかふとした隙にこの手の持ち主まで空に飛び去っていってしまいそうな気がした。半ばすがりつくように両手で固く、その冷たい手を握りしめた。 目の前には大きな船があり、去ってゆく人たちは次々にその中に吸い込まれていく。一列に並んで静かに歩いていった。たまに振り返ってこちらに手を振る人がいたが、声は届いてこなかった。 自分と同じようにこの星に残る人たちが、船の周りを幾重にも取り
チカと二人で、日時計の丘で影踏みをしている。影が長くなるこの時間には、日時計の上で影踏みをするのがここのところの二人のお気に入りだった。 針の影の中にうまく隠れるようにくるくる回りながら、相手の影を縫い止めようと争う。チカと影踏みをするときには鬼は決めずに、互いの影をどちらが多く踏めるかを競った。 日時計の台は卵形をしていて、表面には今ではもう使われていない数字が刻まれている。苔に覆われてそのうちのいくつかは読むことができない。だから本当のところ、これが確かに日時計なの
長椅子の下に転がっていった色鉛筆に手を伸ばそうとしたとき、ふいに楽屋の照明が薄暗くなった。耳を澄ますと先ほどまでの客席のざわめきがほとんど聞こえなくなっている。きっともうすぐ芝居が始まるのに違いない。だのに自分はまだ目の前に散らばった荷物を片付けられないでいる。ぼんやりとした明かりの下で、部屋の中は影ばかりが大きくなって見えた。色鉛筆は見当たらない。 今夜の舞台には気に入りの俳優が出ているのでどうしても始めから終いまで観ておきたかった。それならば古ぼけた絵の具箱だの布の束
ボタンを何度も押し間違えたせいで、正しい番号に電話をかけるまでにずいぶん時間がかかった。意志の力を総動員して指の震えを押さえ込む。受話器の向こうで呼び出し音が鳴る。その音が永遠に鳴っていてくれればいいのにという考えがちらりと頭の片隅をかすめ、つまりはそれが自分の本音なのだという事実を、俺は否応なしに悟る。 これは単に電話をかけて話をするだけ何も罪に問われるようなことじゃないこんなのに騙される方が悪い。今まで自分に言い聞かせてきた言葉は全部、全部自分を誤魔化すためだけのもの
「何度やっても禿頭、という訳ですよ」 カウンター向こうの眼鏡をかけた若い男は、その手元にある用紙に載った俺の名前の上に、赤ペンでシャッと横線を走らせると、唐突にそんなことを呟いた。 地味な灰色のスーツを着た、これといって特徴のない顔立ちの男だ。眼鏡の位置を軽く直しながら、男は何ともいえない表情を浮かべて俺を見つめている。 そう、それはまるで、何度叱っても懲りずに同じいたずらを繰り返す、性悪なガキでも見ているかのような顔つきだった。 俺はついさっきここの窓口に来て、たっ
リビングに入ってきた息子の目は、今朝も真っ赤に腫れあがっている。まだ幼い息子の痛々しい姿に、私の胸もきりきりと痛んだ。 シャルが死んでから今日でもう三日目になるが、息子はいまだにひどく悲しんでいる。だがこればかりは、自分の中で折り合いをつけてゆくしかないことを私は知っている。私自身も、これまでの人生でもう何度も、息子と同じ悲しみを味わってきたからだ。 繰り返せば慣れるという種類のものではない。それでも幾度ものペットの死を通して私は学んだ。胸をえぐる痛みも、息もできないよ
わずかに散り始めた桜の花の上に、あたたかな日差しが降り注いでいる。しかし、そんな長閑かな空気をよそに、仁木七海の心の中には緊張と、そして期待がみなぎっていた。風に乗って体育館の中に舞い込んできた花びらの一枚が、ふわりと顔をかすめたのにも気づかないほど。 新学期の初日、旭中学校三年生の生徒たちは、朝一番で全員が体育館に集められていた。理由は皆知っている、それは彼らがこの年度に、一五歳の誕生日を迎えるからだった。 「ねえねえねえ、七海は明日がもう誕生日でしょ? 一番乗りじゃ
こんな夢を見た。 頭のてっぺんからつま先までピンクのコスチュームに身を包み、右手には光線銃を握ってティラノサウルスを追っている。走るたびにピンクのヘルメットがぐらぐら揺れて、邪魔になることおびただしい。今更ながらにナマクラ博士に悪態をついたが、通信機がオンになっていたせいでブルーに聞き咎められてしまった。 スーパー戦隊の一員になって初めて、幼少の頃憧れていたこのコスチュームはなかなかに動きにくいということを知った。足元を固めるピンクのブーツからしてヒール付である。どこが
こんな夢を見た。 自分は青銅の森に暮らす笛吹きだった。笛を吹いては木々の葉を鳴らすのが自分の務めだった。青銅の葉は鳥が止まっても、風が吹いても揺れない。自分が笛を鳴らしたときだけ、その音色に合わせるようにして葉が揺れ動き、青銅の音を奏でた。他にはすることもないので毎日笛ばかり吹いていた。 ある日、男が森を抜けてやってきた。 お前の吹く笛のような音はこれまでに聴いたことがない。お前はきっとゼロに違いないと男は言った。ゼロが何なのかも知らなかったし、自分がそうだとも思わな
この間買ったばかりの羊たちが心配だと母さんが何度となく言う。仕方なく様子を見に行くことにした。夜には誰も見張るものがいないのに、周りにあるのがチカの作った膝くらいの高さまでしかないあの柵では、母さんが不安になるのも無理はない。ランプ杖を持って牧場へ向かった。 もう星が流れる季節になっている。橙の色の尾をひいて、いくつもの星が空を横切っていくのが見えたが、道にはまだかけらも落ちていなかったので杖に星を入れて明かりにすることはできなかった。流星と、青白い月の光を頼りに凍った道
不思議な鼻歌がどこからか聞こえてくる。はずむようなテンポなのに、それを聴くと胸の中のどこかがきゅうっとひっぱられるような、そんな気分になるメロディだった。公園の中でその歌を耳にした浩一は、どこから聞こえてくるのだろうとあたりを見回した。 浩一の通う保育園の途中にあるこの公園の林の中には、いくつもの小道があった。休日になると、雑貨を売る人や絵を描く人などが、そのあちこちにいるのだった。 いつもは一人だけで公園の奥に行ってはいけないと言われている。しかし何故か、今自分のそば
猫を飼ったことのある人ならほとんどみんな知ってることだと思うんだけど、彼らのご機嫌を損ねないようにぼくら下僕、じゃなかった飼い主は、いつもすっごく気をつけてなきゃならない。 ご飯のお好みはウルサイし水だって常に新鮮でなくっちゃいけないし、トイレの掃除を忘れでもしようものなら百叩きの刑だ。爪さえ出てなかったらそれは、百叩きのごほうびって言ってもいいのかもしれないんだけど。 それと、万が一にでも彼らの失敗(例えばジャンプの目測を誤って無様に床に落っこちるところとか)なんかを