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【明清交代人物録】洪承疇(その二十一)

前回、南明の最初の皇帝に祭り上げられた福王、弘光帝がどの様な背景を持っていたかを説明しました。ここでは、この王朝に集まった主なプレイヤーがどんな人物であったかに触れます。

阮大鋮

阮大鋮は、弘光王朝で兵部尚書に任じられる人物です。この役職は、全ての軍事を束ねる要職です。しかし、この人物の経歴はこの様なものです。

萬曆31年(1603年)舉人となり、萬曆44年(1616年)進士となりました。当初、彼は東林党との関係を持っていましたが、このグループでの出世の機会が無いと見限り、東林党を離れ宦官グループに加わり、東林党の攻撃を始めました。
宦官グループのボスであった魏忠賢は、この阮大鋮の弾劾を支持し、東林党の大粛清を行いました。

崇禎帝の時代、阮大鋮は宦官派とみなされ朝廷に登用されることはなく、戯曲の創作に励みました。農民反乱の蔓延している頃、彼は南京で踊子や歌手を家に呼んで芸事に励んでおり、それを黃宗義らに非難されています。
この人物は、戯曲作家としては相当に名を上げていたそうで、良い評判も残っています。

この様な人物なので、宦官派グループとの関係が強く、弘光帝との関係も近くなります。しかし、清朝の軍隊に立ち向かう軍事の要の兵部尚書としては、相応しくない人物と言って構わないでしょう。

馬士英

馬士英は、萬曆帝の時代に進士となり、南京の戶部主事に任じられています。しかし、崇禎帝の時代、彼は賄賂の贈与を指摘され失職しています。そして長い間南京で失業生活を送っていたところ、阮大鋮と関係を結び彼の斡旋により鳳陽總督の職を得ることに成功しました。この様な経緯から、阮大鋮と彼の後ろ盾となっている宦官グループと近しい関係になっていきました。

前回述べたように、福王朱由崧を弘光帝に選出するにあたり、最も影響力を行使したのが馬士英です。東林党の反対の声が響く中、強引に福王を皇帝に即位させます。ですので、この弘光王朝の実質的なトップは彼になります。

カバーに使っているのは彼の肖像画です。

史可法

この南明王朝の政治家の中で、一般的に最も人気が高いのはこの史可法です。それは、この弘光王朝の中で最後まで清朝に立ち向かい、壮烈な最期を遂げたからでしょう。

史可法は若い頃左光斗に師事、崇禎元年(1628年)に進士となっています。その後、西安府での官職につき、次いで中央で戶部員外郎、郎中の職を歴任しています。農民反乱軍が起こった際には、これを撃退する軍功をあげています。

崇禎12年(1639年)、父親の喪に服してから政界に復帰した史可法は、運河管理の改革に着手しました。3人の河川輸送の責任者を更迭、新たに漕儲道の職を設け、彼にこの業務を一任しました。これにより河川利用の舟運機能は大きく改善されました。
崇禎16年(1643年)、史可法は南京の兵部尚書に就任、この時期に政治改革の八条の提言をしています。

この様に、史可法は非常に実務的な仕事をできる人間であったのだと思われます。明朝の中では清流派の正統的な官僚政治を目指し、宦官派とは一線を画す政治的立場にいました。

錢謙益

錢謙益は、清朝の攻撃に際し南京城による抵抗を諦め城門を開けた人物です。この人物は文人政治家として著名な人物でした。青年時代の鄭成功も、錢謙益の元に送られ、勉学に励んだそうです。

錢謙益は、萬曆38年の探花(科挙の第三位の合格者)であり、明朝末期の文壇の指導者として名をなしています。その期間は50年に及んでいたということです。そして、清流派政治家のグループである東林党にもその創立期から関わっています。
ですので福建の地で鄭芝龍が息子を科挙に合格させ、王朝の棟梁となる様、科挙の試験に合格させたいと考えた時に、最も相応しい教師として錢謙益を選んだのでしょう。

錢謙益の文人としての名声は江湖に轟いていましたが、政治家としてのキャリアは順調なものではありませんでした。それは、明末の朝廷が宦官に牛耳られる期間が長かったからです。
泰昌帝即位の際。錢謙益は翰林院編修に就任します。これは王朝の歴史を編纂する要職です。この皇帝は、すでに説明した様に即位の翌月に亡くなってしまいます。そして、その後の天啓帝の時代、彼は宦官派の弾劾を受け失脚してしまいます。

この人物は、その文才によって科挙システムの中では認められたのでしょう。中国の官僚システムというのは、文書を作る能力をとても重んじます。そしてその名声を以て世間の評判を得て、王朝の歴史文書の整理の仕事を任されていました。
しかし、これは平時の能力であって、戦乱の不安定な時代に軍隊を叱咤激励して、戦争を指導するという様な能力ではなかったでしょう。

宦官派に踊らされた王朝

弘光王朝の代表的な人物として4人の代表的な人を紹介しました。そもそも、弘光帝の出自から宦官派がリーダーシップをとることになるのは致し方ありません。しかし、皇帝の小間使いでしかない宦官が勢力を持ってやっていけるのは、王朝が安定している前提での話でしょう。スタートアップの政権が宦官によって動かされるという例は聞いたことがありません。ましてや、崩壊寸前の王朝を支えなければならないという事態に、宦官と皇帝の私的関係を基礎に据えた、この様な人間関係で作られた組織がまともに立ち向かえるわけがありません。

そして、清流派の実務的人物であろう史可法はこの王朝では少数派で孤立してしまっています。
この様なフォーメーションで清朝の軍隊を迎え撃つことになる弘光王朝には、初めから何も期待できなかったでしょう。そして、実際に弘光王朝は2年を待たずに崩壊することになります。

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