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【明清交代人物録】洪承疇(その二十三)

ここで、第二の南明王朝に進む前に、ドルゴンの選んだ政治的にハイリスクな政策、"剃髪令"について説明します。

剃髪令とは

ここまで、洪承疇を主体に清朝の勃興してきた過程を述べてきました。それは、ホンタイジからドルゴンの時代、満州族が東北の地から離れて中国の中原に覇を唱えるにあたり、洪承疇の果たした役割はとても大きく、山海關の戦い、北京奪取の攻防などに彼が活躍しているからです。

しかし、満州族の考えと洪承疇のそれが一致しなかった場面も少なからずあったはずです。満州族のリーダーが、漢族のブレーンの意向に反して押し通した政策。その最たるものがこの"剃髪令"に関わる問題です。

漢人は、髪は切らずに伸ばして、束ねた髪を頭の上に結うことにしていました。理念的な背景としては、身体の全ての部分は親から授かったものなので、切ってはならない、そのまま残しておかなくてはならないというものです。ですので、儒教的な忠孝の観念と結びついていたのだと考えられます。
単なる好き嫌いではなく、この風俗を守ることが儒教の理念を実践すること、親への尊敬を表していたというわけです。

一方満州族にとっては、これは先祖代々伝わっている民族の風習であり、男子は子供の頃からこの髪型にしており、彼らの民族の象徴と考えられていたのでしょう。

北京で発せられた剃髪令

実は、この剃髪令はドルゴンが北京を李自成から奪取した時点で既に発せられています。ドルゴンは、この弁髪を人民に強制するのは、満州族が中華の地を統治し、漢民族を服従させた証であると考えていたのでしょう。
清朝と明朝の東北の地での戦いにおいても、ドルゴンは清朝に服した明の軍隊に対しては弁髪を強制しています。これは、敵と味方を区別するためのサインという、実利的な意味合いも持っていたでしょう。敵と味方を簡単に見分ける手段として、弁髪を強要していました。

しかし、弁髪を一般市民に強制する政策は、北京で猛反対を受けました。そして、この時ドルゴンは一旦弁髪を強制することを諦めます。李自成の順王朝、明の残存勢力が残っている段階では、剃髪令を強制し市民の反発を受けるのは得策ではない。時期尚早と判断したのです

弘光朝崩壊後の事態

ドドは、南京を征服した後に市民に対して弁髪を強要しませんでした。これまでの政治的な経過に沿って南京を統治しようと考えたわけです。弁髪にするかどうかは、人民の自由意志に任せました。そして、錢謙益をはじめとする弘光朝の政治家も市民も、清朝の統治を受け入れ始めました。

しかし、明の首都であった南京が陥落し、順王朝の李自成も死亡したと言う知らせを北京で受けたドルゴンは、これで清王朝の漢民族統治の闘争は、既に峠を超えたと判断しました。後は残党狩りに過ぎない、軍事的な脅威はないと考えたのでしょう。そして、あらためて剃髪令を実施する様に指示を出しました。
洪承疇をはじめとした北京にいた漢族のブレーンは、こぞってこの政策に反対しました。髪を伸ばすことは漢民族にとっては古来からの風習で、これを否定することは漢民族を統治するにあたり大きな障害になる。彼らの反発を受けることになる。この様な民族の風習は尊重した上で、漢族の土地の統治を進めるべきだと進言したのです。
しかし、ドルゴンは聞く耳を持っていませんでした。彼にとって、弁髪を強制することは、満州族が中国を統治することに成功した証しであると考えられたのでしょう。これは、彼個人の考えと言うよりは、満州民族全体としての悲願だったのかもしれません。

《清世祖實錄》にドルゴンの発した剃髪令の記録が残っています。

向來薙發之制,不即令劃一,姑聽自便者,欲俟天下大定,始行此制耳。今中外一家,君猶父也,民猶子也,父子一體,豈可違異。若不劃一,終屬二心,不幾為異國之人乎!此事無俟朕言,想天下臣民亦必自知也。自今布告之後,京城內外,限旬日;直隸各省地方自部文到日,亦限旬日,盡令薙發。遵依者,為我國之民;遲疑者,同逆命之寇,必置重罪。若規避惜發,巧辭爭辯,決不輕貸。
……不隨本朝制度者,殺無赦。其衣帽裝束,許從容更易,悉從本朝制度,不得違異。

《清世祖實錄》卷17

「これまで剃髪の件については、統一した命令を出していなかった。人民の自由に任せ、剃髪をしたいものはさせ、しないものはその自由にさせていた。しかし、それは天下が定まるまでの暫定的措置である。今日、中原の内外は統一され、皇帝は父となり、人民は子となった。父子が一体であることに何の異論があろうか。国の作法は統一しないといけない。さもなくば二心があるものとみなせよう。それとも、外国人であるとでも言うのか。このことは朕がことさらに言うまでもなく、天下の臣民皆が自ずから知っていることであろう。

本日の布告日より、京畿においては10日以内に、直隷及びその他の地域では、この布告が届いてから10日以内に、剃髪を徹底させるよう布告する。これに従うものは我が国の臣民とみなす。これを疑うもの、或いは従わないものは、重罪に処す。この令を遅々として発せず、或いは言を左右にし実行しない場合、これを許さない。本朝の制度に従わない場合、これを許さず死刑に処する。服装と冠については自由とするが、剃髪については本朝の規則を守らなければならない。異論は許されない。」

ドルゴンが順治帝の名を借りて布告したこの文章には、剃髪の件については、一切の議論を許さない。命に従わないのものは殺すという、非常に強硬な意思を感じとれます。ドルゴン、或いは満州族の王朝である清朝は、漢民族に弁髪を強要することについては、妥協の余地なしという態度で臨みます。

漢民族の反抗が始まる

南京を治め始めていたドドは、兄であるドルゴンからのこの指示に忠実に従います。期限を切られた剃髪令が実施されたのです。
多くの漢族市民はこれに反発しました。軍人は戦闘をしても敵わないとすぐに降参するのですが、一般市民がこの命令に感情的に納得がいかないと反抗をし始めるのです。

清朝による中原制覇の戦いは、弘光朝の瓦解する1645年の時点までは大きな問題なく、漢民族にも好意的に受け入れられていました。しかし、ここから風向きが変わり始めます。この剃髪令の発布により民意が離れてしまうのです。軍事的には圧倒的な強者であるにも関わらず、民の心が離れてしまうと、国の統治は覚束なくなる。ドルゴンはこのことに思い及ばなかったのでしょう。

南明の第二王朝である隆武帝の時代、この清朝の失策が影を落とし始めます。そして、これは洪承疇の力を持ってしても御することのできない、満州族のプライドをかけた問題だったのだろうと僕は考えています。

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