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学生時代のヨーロッパ旅行(その二十ニ、オーストリア)

シエナからは、また長距離列車に乗りウイーンまで行きました。
僕は大学3年時の建築研究のテーマとして、19世紀末のウイーンのセセッション運動のことを調べていたので、この街には特に思い入れがありました。

大学時代に学んだ"ウイーン世紀末"の歴史

僕が建築研究会で研究を任された、19世紀末時代のウイーン文化というのはとても面白い物だったので、概要を説明します。

19世紀末という時代は、文化のパラダイムが大きく変貌する時代と学びました。ヨーロッパでは、19世紀いっぱい新古典主義の建物がデザインされていたわけですが、この様式建築が新しい技術や文化により変貌を余儀なくされていくわけです。

新しい建築材料というのは、鉄とガラスです。この様な建材を用いてどの様に建物を計画していくのか、それが新しい課題になります。
一方、社会自体の主人公も変わっていきます。貴族の政治力が重きをなしていた時代から、一般市民、ブルジョアジーが社会の主体となる時代に移り変わってきます。そうなると、ルネサンス以降ギリシャ・ローマ時代を参照し、過去の様式を再現するという建築様式から、その様なくびきから離れ、自由な様式を求める時代になります。
その様な文化的な動きが、フランスではアール・ヌーヴォーと呼ばれ、オーストラリアでは分離派:セセッションの活動と呼ばれます。

この様な建築界の動き以外にも、この時代のウイーンでは、前の時代の考え方を覆す様々な方法論が生まれています。
例えば、ジークムント・フロイトによる心理学の研究。これは人間の無意識を心理学の検討の俎上に載せています。グスタフ・クリムトの絵画。これは、人間の情動・エロスといったものを絵画として直接表現を始めました。
哲学者としてはヴィトゲンシュタインが現れ、言語を分析することから、人間の思考の構造にメスを入れています。音楽家としては、グスタフ・マーラーが現れて、ヨーロッパの音楽をさらに洗練させていきます。

この様な様々な芸術家・思想家が同時代に同じ場所で生きている。彼らにはユダヤ人グループとしての密接な繋がりがあり、互いに影響しあっていたと、そういう歴史を学びました。

オルブリッヒの建物

ウィーンはセセッション運動の中心地であり、セセッションの名を冠した建物があります。セセッション館です。この建物はヨセフ・マリア・オルブリッヒが設計しています。
この建物は、"哲学者ウィトゲンシュタインの父である実業家のカール・ウィトゲンシュタインの支援により建設された。"とwikipediaにあります。この様なユダヤ人ネットワークの中で、新しい文化を模索するというのがセセッション運動なのでしょう。

この建物を見ると、後の近代建築と比べると壁面の構成などに、まだ様式建築の名残があるように思えます。後の近代建築の流れはこの様な装飾をすべてはぎとる方向にラジカルに進んでいきますので。
新しさがあるのは頂部の金色のドームですね。この様な造形は新古典様式の建物では現れません。文化の変革期における過渡期の建物という印象でした。

セセッション館

ワーグナーの建物

この時代の著名な建築家にオットー・ワーグナーがいます。オルブリッヒよりも20歳ほど年上なので、19世紀末の時代ではオーストリア建築界の重鎮となっています。彼の建物もウィーンでは注目を浴びているので見学に行きました。

カールスプラッツ駅

この小さな建物も、旧来の新古典主義の様式からは少し逸脱しています。金色の装飾の付け方とか、中央のヴォールトな形の屋根ですね。
この建築家は、金属を使ってこの様な新しい装飾的な表現に方向性を見出しています。

カールスプラッツ駅

マジョリカハウス
この建物もファサードの装飾的表現が特長です。

マジョリカハウス

ウイーン郵便貯金局
この建物は、外観はとても厳格な新古典様式を持っていますが、内部空間にガラスを使ったとても新しい表現をしています。

建物外観
インテリア空間

アドルフ・ロースの建物

この時代のウイーンには、もう1人近代建築の成立に大きな影響を与えた建築家がいます。アドルフ・ロースです。この人物は、先の2人の建築家がどちらかと言うと、過去の様式の中に新しい装飾的要素を盛り込むというアプローチをしたのに対し、全く反対のことを唱えています。彼は「装飾は罪悪である」と主張したのです。

アドルフ・ロースは、アメリカで機能的なプラグマディックな建物群を見て、ヨーロッパの古典様式や分離派セセッションの装飾的な建築のアプローチに真っ向から異を唱えました。それが「装飾は罪悪である」というスローガンとして主張される様になり、彼の実作もその様なコンセプトの設計になっています。

下に紹介するのが、彼の代表作ロース・ハウスです。足下周りに若干の様式建築的な要素は残っていますが、主要な壁面はとてもシンプルに設計されています。現地に行って周辺の建物群と比べると、その異質さは一目瞭然でした。

近代建築は、どちらかと言うと、装飾を削ぎ落とすこのアドルフ・ロースの方法論を突き詰めていく方向に進んでいきます。ウイーンでは、この様な方向性を示す建築家も活躍したのです。

ロース・ハウス

グスタフ・クリムトの絵画

ウイーンではもう一つ見たいものがありました。それは、グスタフ・クリムトの絵です。クリムトその人もウイーン分離派セセッションの重要人物です。建築における新しい動きと共に、絵画においてもクリムトは新しい創作を初めています。
それは、フライトの無意識に対しての分析をするのと呼応する様に、人間のエロスに対する情動を直裁に絵画として表現したものです。彼の絵画は、時代の枠を超えて現在でも頻繁に紹介されています。日本でも何度も展示会が催されています。
この時は、クリムト代表作である「接吻」を見に、ベルヴェデーレ宮殿に向かいました。

そこには、オーストリアの比較的新しい時代の絵画が納められており、それらも鑑賞していたのですが、そこであることに気がつきました。それは、絵画のテーマがイタリアでよく見た宗教とか貴族の肖像画ではなしに、市民生活にあるということです。
オーストリア、ハプスブルグ帝国というのは第一次世界大戦の前までは世界に冠たる大帝国で、広大な土地を有していたわけですが、19世紀にもなると文化の中心は既に貴族から市民社会に移っていたのだなと感じました。

それらの市民生活をテーマにした絵画の中でも、クリムトのこの作品は異彩を放っていました。テーマが接吻であり、その表現はとても装飾的で、イリュージョンの中にいる様です。過去の様式から決別するという分離派の宣言が、この絵画にはとても鮮烈に現れていると感じました。
この金箔を用いた絵画表現は、日本の屏風絵の影響を受けたものだとも言われています。建物に用いられている黄金の装飾も、同じような美的感覚から用いられているようにも思います。

クリムトの「接吻」

20世紀になると、オーストリアという国の存在感はだんだん薄れていきます。2度に渡る世界大戦でのオーストリアの立ち位置は、ドイツ帝国と足並みをそろえた、ゲルマン民族の国という風に見れますが、こと19世紀末という時代の文化的側面を見ると、上記の様なとても革新的でラジカルな活動をしていたことが分かります。

大学でこの時代のことを学び、実際にウイーンの街を歩いてその成果である建物群を見たことで、僕のオーストリアとその首都ウイーンに関するイメージは相当に解像度が上がった様に思います。


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