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ないものがあるということ/ひとりでも集まれるところ

ヤンデルさん


読む言葉にピチパチ刺激を感じながら、ああやっぱり久しぶりだったな、ヤンデルさんのお手紙。なんて、数ヶ月の空白と、改めて有り難さを感覚で知りました。


お返事をいただいて、無性に読み返したくなった本がありました。
『バートルビー 偶然性について』ジョルジョ・アガンベン(月曜社/ISBN9784901477185)という本です。ある法律家のもとに訪れたバートルビーという筆生(書記みたいなものですかね)、何を言っても「しないほうが良いのですが…」としないことしかしない青年の話、メルヴィルの『バートルビー』という短篇小説(これも新訳で収録されています)についてのアガンベンの考察です。
なぜこの本を読み返したくなったのか、理由はわかりません。
読み返してみてもよくわかりませんでした。
書かれない言葉(手紙)というイメージがなんとなく繋がったのかもしれません。書かれた言葉によって、書かれなかった言葉が浮かびあがったというか。
表出しない内なるもの、潜勢力というらしいです。
アガンベンの考察部分は再読でも難しかったですけれど、メルヴィルの小説は二度目でも不思議で良い味でした。


ヤンデルさんも「手紙、来ないなー」ってなっていて、お互いがお互いの手紙を待っていたのかと知って、面白い状況だったのだなぁと思いました。なんかいい間(ま)を与えられた感じもします。

届かない手紙がどうしたとか云っていた哲学者がいたなぁとも思っていたのですけれど、『バートルビー』の解説部分にも出てきたデリダでした。デリダは以前に一冊読んでみたことがあるのですけれど、もうほんとにちんぷんかんぷんでした。このキッカケに『〈ジャック・デリダ〉入門講義』仲正昌樹 著(作品社/ISBN9784861825781)を買って読み始めました。入門講義ですけれど、やっぱり難しい。これはなかなか読み終わることができないなと、先にお手紙であげられていた『はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内』を読みました。そうです。いままで読んできてなかったので買ってきました。
出てきましたね「ないものがある」。
アガンベンとかデリダとか胃に重いものを読んでみたりしてるなか、スッとするラムネを一口噛んだみたいに良い本でした。

哲学を読むとき、そういえばぼくはあまり入門的なものを読んできてなかったな、と気づきました。

考えるための手引き(もちろん入門書はそういうものだけではないですけれど)のようなものはあまり欲してなかったのかもしれません。「どう考えるか」よりも「何を考えるか」のほうが面白かった。そもそもの思考とか考え方への興味よりも、空想とか想像への興味が強くあったのです。

だから哲学への入り口は、たいてい小説家が書いた言葉からだったりします。埴谷雄高さんがカントに耽り、筒井康隆さんがハイデガーにハマって、保坂和志さんがラカンを引用すればそれを読みます。ヤンデルさんが千葉雅也をすごいといえば、それを読みます。(まだ『勉強の哲学』一冊しか読んだことがなかったのですけれど、先日『ツイッター哲学 別のしかたで』(河出文庫/ISBN9784309417783)を買ってきて、ちらちら読んでいます。こういう感じだからお返事がさらに遅くなるのです。ごめんなさい)
ヤンデルさんは小説家ではないですけれど、ヤンデルさんの言葉に想像を形付けられたことも一度や二度ではないので、強引な並びのねじ込みを許してください。もしもヤンデルさんが書いた小説があればめちゃくちゃ読みたいですし。

ぼくは普段の空想や想像、そこに感覚も含めて、浮かんだもやもやしたものが、言葉になっているのを小説のなかに見つけます。そういう小説を書いた人が読んでる哲学には、たいていそういうものたちが名付けられています。
そこで、「ああ、これを〈不可能なもの〉というのかなあ」とか「ぼくにとっての〈対象a〉とはあれのことだな」とかってなるのが面白いのです。(概ね誤読だし誤読で良いとも思っています)

ヤンデルさんは「自分の哲学を書いて、自分でそれを読む」とおっしゃった。

ぼくは…自分の哲学ってあるのかなあ、もっぱら他者の哲学をずれながら摘み読んでるようです。

来る春にヤンデルさんが出される「衝突」の本をとても楽しみにしています。衝突したりずれたりしながら誤読したい。フフ楽しみ。


そして前回のお手紙の最後でちらっと書きました、燃え殻さんに選書してもらった【燃え殻書房】のお話しをします。この春からやっていて、実はまだやっているのです(当初から場所は変わりましたけれど)。

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写真、ちゃんと貼れてますでしょうか。このスペースから燃え殻さんの穏やかさとか優しさとかが滲みたっています。『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』も並んでいます。
やっぱり選書、というか読んできた本というのは、その人と合わさっているのだなあ、って感じます。もし燃え殻さんを知っていなくても、ここにある本たちを読んできて、おすすめする人を、ぼくは好きだなあと思う。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』が文庫になった頃、まだぼくは燃え殻さんを知らなくて、ツイッターのタイムラインに流れてきたその本の雰囲気で、少し興味を持ったくらいでした。休憩時間に売り場で佇んでいるぼくに、ある文庫担当さんが近づいてきて「ああ、マエダさん。それ、読みそう」と云ったのです。ぼくの読書傾向や好きな作家やまったく話したこともない、本の話自体したこともない人からです。
「それ、読みそう」…この本を?ぼくが?読みそうだって?
その言葉はきっかけであり、呪縛でもあったかもしれません。文庫担当さんは「これを読みそう」などんな人をぼくの中に見たのだろう。そこから、確かにぼくは「これを読みそう」な人だな、になるまで時間はかかりませんでした。燃え殻さんの言葉のなかに、ぼくの想像や感覚、もやもやしたもの、それだけじゃなく、記憶や欲望といったものまで、見つけてしまったからです。

ほかにも見つけた人たちが誰かたくさんいて、また、この【燃え殻書房】でそれぞれの言葉を見つけてくれるのだと思いながら、フェアをしています。ぼくはその人たちもきっと好きです。

燃え殻さんが以前にやったラジオのタイトルに「あの小説の中で集まろう」というのがあって、これはTOKYO No.1 SOUL SETの『MORE BIG PARTY』(アルバム『TRIPLE BARREL』(1995年)の中の一曲です。名盤です)という楽曲のフレーズですけれど、ぼくはこの言葉が大好きです。
こういうフェアをするとき、この言葉に見つけた、ふつふつとした願いのようなものが湧き踊ります。
いつでもこの本たちの中では集まれるなあ、なんて。

それぞれバラバラで隔てられていて息をひそめていなければならないとしても、集まれる場所が本にある。
そういう場所がある場所としての本屋は、それ自体にいまは集まれないとしても、存在しておかなければな、と。

ゆっくり集まりましょう。
また、良い「集まれる場所」を教えてくださいね。


(2020.11.29 マエダ→ヤンデルさん)

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