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連なる空想と連なる本たち

ヤンデル氏


3月に入ってしまいました。
今月の北海道行きは伸びてしまいましたけれど、お楽しみの先延ばしは嫌いじゃないです。またいずれお会いできる場面をふわふわと空想してます。

ところで、ヤンデル氏の古い記憶……

「脳の「母屋」を出て、離れの先にあるボットン便所のさらに向こう、さびれてたたずんでいる古い蔵の南京錠をガタコトと開け、明かり取りから差し込む光線にほこりが舞い上がる中、木と鉄で組まれた千両箱みたいな書類入れをひっくり返し、紙魚にやられた古文書の一部にかろうじて読める程度の万葉仮名を読んでみますと……」

もう横溝正史すぎて、僕はすぐ昭和初期の地方にある旧家を訪れました。山間の集落から少し離れた小高い場所にその屋敷は建っていて、なんだかとても困っている警部を尻目に裏手の離れと厠を回って、薄暗い蔵の中に入って朽ち果てそうな古文書を拝見したのです。

途端、舞台は暗転し古代中国、諸星大二郎の世界に飛びました。太公望になる前の若き呂尚は謎の老人だか神さまに導かれて、みごと竜を釣りあげていました。


空想文献:『本陣殺人事件』横溝正史(角川文庫/ISBN9784041304082)、『太公望伝』諸星大二郎(潮出版社/ISBN9784267906268)


そういえば……なんていう思い出しの作業すらなく、地方の旧家にも古代中国にも行かずに、ワンルームの押入れの隅あたりにずっと放置されている、僕のなりたかったものは、仙人です。感情に左右されず、浮草というか木石というか、雲の上で寝転がりながら揺蕩ってるような。で、たまに女性の脹脛に見惚れて墜落するような仙人です。ずっと霞を食って生きたかった。なんならいまでもそこにある空想です。(これ、空想の元になった「まんが日本昔ばなし」的な仙人像があったはずなんですが、グーグルやユーチューブでは出てきませんでした)

連想ゲーム、というのか空想とか妄想はけっこう好物です。僕にとってそれらはビジュアル的なもので、たとえば小説や随筆みたいな文字であっても映像化されていますし、漫画であってもそのままのコマというよりは脳内で少し変換された映像として、記憶にあって、それらが掘り出されて空想や妄想の種になっているようです。

もう前々回のヤンデル氏のお手紙に出てきた本になるんですけれど、『新記号論』(ゲンロン/ISBN9784907188306)を読みました。記憶(メディアも)について、文字や絵などのアナログから映像や音声を含めたデジタルに更新する必要があって、それは記号論という学問をアップデートするっていう文脈で出てきた話ですけれど、アナログ→デジタル/iPadとかテクノロジーを前提にするのはともかく、記憶は映像として動いてる(文中ではシネマトグラフィーという言葉を使ってました)というのはなるほどなぁと思いました。とても面白かったです。
いわゆる「現代思想」の本を読むのは、けっこう久しぶりです。この手の本を読むと、いつも(もうわかってたことなんですけれど)さらに読みたい本が激増します。

プラトン『パイドロス』、フッサール『内的時間意識の現象学』、宮沢賢治『宮沢賢治詩集』、デリダ『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『散種』、ウルフ『プルーストとイカ』『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』、ドゥアンヌ『意識と脳』、フロイト『自我論集』、ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』、東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、タルド『模倣の法則』『社会法則/モナド論と社会学』、フーコー『言葉と物』『知の考古学』……。

中に出てきた本の一部、読みたいと思った一部でもこれだけあって、哲学・思想の定番書もあって、いままで何度も何度も欲しいと思いながら買えてない本、買ったけど読めてない積み本もあります。


フッサールの『内的時間意識の現象学』(ちくま学芸文庫/ISBN9784480097682)なんていうのは、こないだ読んでめちゃくちゃ面白かった『時間は存在しない』(NHK出版/ISBN9784140817902)でも取り上げられていて、「また出た」ってなってます。さすがにもう観念して読み始めましたが、面白いけど、まあ難しいです。だいたいそうなんです。解説とかされてるときは面白いところを抽出されてるから「これはこれは。ぜひ読まねば」ってなるんですけど、元本に当たるとだいたい手強い。もっと難しくて読みにくくて、脳の表面をつるつるうわ滑っていくだけの本もざらにあります。
で、まだ途中なんですけれど『内的時間意識の現象学』の訳注に、(フッサールはここで)記憶と空想をイコールとしてるってとこがあって、「おおっ」てなってます。いつ読み終えられることやらですが、じっくり釣り糸を垂れます。


妄想といえば、かもさんの『だから僕は、ググらない。』ですけれど、じつは僕はこの本まだ一回しか読んでなくて、未消化なのです。いや、もちろんすべての本は完全に消化することはできないんですけれど、たいていは「読んだ」ということで終われるんです。けれどこの本は読んだけれど終われなかった。妄想というのがわからなくなってしまった。僕の思っていた妄想というのと、かもさんのいう妄想は違うのではないかと。もちろんただでさえふわふわもわもわしてる妄想を確定なんてできないのですけれど。で、かもさんに会ったとき、聞いてみました。僕の思ってた妄想は、テレビで関根勤さんが美人女優さんとデートしてるとかの場面を話してるイメージが近いと思ったので、それとかもさんのいう妄想とは違うんですかと(じつはこの例えもまたちょっと違うんじゃないかとあとで思ったんですけど)。かもさんが答えたのは、僕の妄想には欲望が含まれていない、ということでした。ちょっとびっくりしました。僕は妄想や空想、記憶も含めてそこには必ず欲望が無意識にも干渉してると考えてたので。そして伺いたかったのは(ゆっくり考えると)妄想の動因ではなくてどちらかといえば種類というかバリュエーションについてのかもさんの考察だったんですけれど、時間もなかったし、僕の読みがぜんぜん足りなかったのもあって、もっと読み込んでまたかもさんにゆっくり聞いてみたいと思っています(もっと読み込んだら、理解できることかもしれないんですけれど)。

(空想/妄想は好物といいながら、こうして文にすると、こんがらがって、うまく伝えられなくて申し訳ないです。長くなってしまいました)

さて、そのかもさんの、めちゃくちゃ楽しかった【かも書店】フェアもおわり、そこにあった読みたかった本をやっと僕も買っていくことができます。まとめて買う豪勢なことはできないので、まずはヤンデル氏も推していた『なぜ私は一続きの私であるのか』(講談社選書メチエ/ISBN9784065135198)を買いました。もうほんとにいつ読み終わるのやらなので、感想とかはヤンデル氏がもう忘れた頃に云うかもしれません。

さて、3月中旬からまた僕の大好きなかたの選書フェアを始めます。ヤンデル氏も大好きなかたの選書なので、ぜひど期待ください(誤字りましたけど「ど期待」ってご期待より強くていいな、と思ったのでそのままにします)。



(2020.03.09 マエダ→ヤンデル氏)

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