「ポリアモリー」という言葉を使う、危うさについて

まず、最初に。
先のエントリーを書いたのは、「note」を散策していた時の話。「ポリアモリー」という単語が書いてある記事に、出会ったからです。
丁度。私(というか知り合いの女性)にとってタイムリーな話題だったので読んでみましたが、どうにも「ポリアモリー」について間違った解釈をされていらっしゃる御様子。
そして、彼は「間違えたままの」ポリアモリーとして生きる自分の今後を考えられているようでした。
コメント欄で「ポリアモリーは、結構ヘビーな生き方ですよ」といった内容を伝えようと思いましたが、五〇〇文字には収まらなかったので概要だけを伝えました。
自分の中が、消化不良でモヤモヤして。思考を整理するために、先の記事を書きました。
しかし。よくよく考えてみれば、コメントから私に簡単に辿り着けるという事実に、先ほど気付きました……。
彼が「もし」該当記事を読んでしまったら、さぞ傷つかれたことでしょう。
糾弾するつもりはなかったのですが、誤解を招く私の愚行は取り消せない。
もう、彼には私の記事が読まれることはないでしょう――。
手遅れですが、本当に申し訳ございませんでした。

先に謝っておきます。
本日は、警告の意味も込めて相当に辛辣です。申し訳ございません――。

私は「自分が取った行動の(後付けの)理由」として、耳障りの良い言葉を使う人間を軽蔑しています。

※冒頭で書いた「彼」については、「本当に悩んだ上の結論」として言葉を誤用してしまっていたので、軽蔑の対象にはなりません

私が軽蔑するのは、「俺という人間が、何人も彼女が居ないと納得できないのは、『俺がポリアモリー』だったからなんだ!」と自分を納得させる類の人間です。

「都合の良いところだけを、『わざと』曲解して正当化する」。
そういった手合いに限って、「本当に読んで欲しい」部分は読み取ってくれません。
書き手側としては、悲しくなる事実です。

私は「情報発信者気取り」の人間ではありません。
そもそも、私は「ニュース情報」を発信している訳ではありません。
※実際に、ずいぶん前からメディアで取り沙汰されていた情報です
「私が、思考実験の上で辿り着いた結論」を書いているに過ぎません。
あくまで仮説です。
「そこから読者の方が興味を持って、自分で更に思考」してくれたら存外の喜び、と思っています。
ですから「『記者』が思考せずに、ネットで収集した情報を上手く纏めた記事」が読みたいのならば、私の記事を読む必要は無いんです。
「通り一辺倒な情報」が欲しいのならば、「単語反応」してググって、Wikiを読めばいいんですよ。
その上で。興味が持てる情報に対して、書籍を読んで詳しく知る……というのが理想ですけどね。

話を戻しますと。
「ポリアモリー」という言葉は、「曲解すると、使い勝手が良い言葉」なんですよ。
例えば「不倫の言い訳」として、「俺(私)は、ポリアモリーなんだから仕方がなかった。性的マイノリティを『差別』するな!」と言えちゃう。
「セックス依存症」とかと同じで、証明は難しい。
だから、彼が本当にポリアモリーである可能性は否定できません。
しかし、民事的に「不法行為」ですから責任逃れとしては機能しません。
そもそも。
「奥さんの了解を取っていない不貞行為」という時点で、ポリアモリーを名乗る資格はありません。

こういう輩が跋扈していくと、言葉が本来の意味から乖離していくので本当に危ないです。
「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉の通り、ネット社会でも「声高に持論を押し付けてくる人間は、大概において思慮が浅い」と私は思っています。
※例外もあるでしょうから、あくまで私の持論です
ややもすれば「ヤリチン(マン)」の人が、自己紹介で「俺(私)はポリアモリーです(つまり、誰でも誘ってネ☆)」という時代が来るかも知れない訳です。
その時。一番の被害者は、「生来からのポリアモリーという状態に、実際に苦しんできた人たち」です。
耳障りが良く使い勝手の良い言葉を、過去の言い訳や自己正当化のために使用する人間は唾棄すべき存在です。
私は「モノガミー代表」として、ポリアモリーの方々の考えを代弁させていただきます。
「ふ ざ け ん な!」と。

非常に長い、蛇足。
ニーチェという哲学者を、ご存知でしょうか?
名前くらいは聞いたことがあるでしょう。
「神は死んだ!」と言った人です。
まあ、有名どころの逸話としては「ニヒリストである」とか、「生涯、女性と関係を結ぶことが無かった」くらいですかね? 偏り過ぎてますかね?
彼の著作「ツァラトゥストラは、こう言った(『かく語りき』とも)」は、非常に難解な本です。
訳者によって、全然違う解釈になっていたりするそうです。
私は「哲学者」ではありませんので、よく分かりませんが有名だったので読んでみました。
「世間(哲学を学んでいる方々)の評判が悪い」岩波文庫版で読みました。
読んでから「評判が悪い」と聞いたので、大いにガッカリしたのは昔の話。

ツァラトゥストラが、街中で、森の中で、友人との会合の中で、弟子たちへと語りあえる場所で、あらゆる場所で――。
「もう、この世界はダメだ。手遅れだ! 警察も政治も役人も守銭奴も貧者も富める者も宗教家も労働者も女どもも、とうに腐りきって道を違(たが)えてしまっている。『この世の真理』を知る私は、真理に近づく努力している弟子たちにのみ心を許し、そして真理について教えよう。ともに人間を超えた存在『超人』を目指すのだ!」と演説し続けるという、小説の体裁を取った哲学書です。
ぶっちゃけてしまえば、「引き籠り屁理屈大好き人間が、上から目線で世の中をバカにし続ける」本と言っても良いと思う。

この本が、「ポリアモリー」と何の関係があるか?
このニーチェの著作から都合の良い部分を抜粋して、ナチス・ドイツが世界大戦のプロパガンダとして掲げた、という話を聞いたことがあるのです。
たしかに、ニーチェは偏屈でニヒリストで童貞(それは関係ない)です。
しかし、「隣人愛」ではなく「遠人愛」を説いています。
――それが『超人になる道だ』と。
「戦争賛美」とは真逆の発想ですよね?
しかし、「政治腐敗」や「間違った世の中」を土台として、「ルサンチマン的思考」をくすぐる思想操作を行なえば、話は変わってきます。
「世界は変えなければならない!(戦争で)」という理屈にもなるのです。

テレビ慣れしていない識者がテレビ番組に出演したら、「言いたいことは全部カットされてて、逆の意見ばかりを編集して繋がれて『こんなことを話したか? 自分は……』」と思った、という話を聞いたことがあります。
テレビ局的に、その人が言って欲しい論調にすべく編集したのでしょう。
――そして。
テレビつながりで、私自身の体験。
当時。勤務先の新宿で、テレビ番組のロケを見かけました。
「アンコールワット」の写真をパネルにして、道行く素人に「これは、どこでしょう?」と聞いていました。
要は、「知ってる人は、どれだけいるのか?」というバラエティ番組だったのでしょう。
私だったら声を掛けられても無視しますが、答える人は「自分がテレビに映る可能性を期待している人」だと思います。
そうしたら、テレビに映る可能性が一番高い方法は何か?
それは自明で、「わざと、破天荒な間違えた回答をする」ことです。
私がテレビに映りたい人だったら、「えー? あ! 『東大寺』だ!」とか答えてみせるだろう。
正答者は「絶対にテレビに映らない」のだ。
テレビマンや視聴者は、正解なんて求めていない。
「いかに最近の若者(?)は馬鹿か」というコンテンツを望んでいるのだ。
結果として、「正答率は30%でした」と言われて会場の客が「え~!」って驚いてみせる。
誤答者の一定数は「ボケてテレビに映ろうと思っている」のを分かっているのだろうか?
テレビ局側だけではなく、視聴者側も印象操作に加担しているのだ。

――そんなこんなで。
脱線が過ぎたので、そろそろ上げようと思います。
これで、私のアンチが「ぶわーっ」って湧いたら面白いですね。
隠れて書いてるのに、「炎上マーケティング」になっちゃったりしたら困りますねえ。
まあ、大丈夫でしょう。
私の営業マン時代のあだ名は「ジミー(地味に仕事をするから)」と「クラーク(暗く仕事をするから)」ですからね!

――上司の「持ちネタ」だったみたいなので、気にしてませんけどね。

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