私の成分表。文章力を得る(?)までの経緯

私は、幼少時代には「百科事典」と「図鑑」を友として生きていた。
「ギネスブック」とかも好きだったかな?

そして。
中学時代から「受験戦争は始まっている」という理由で、親から漫画を禁じられた。
だから、小説を読み耽った。
弁当が作れなかった時に親から渡される、購買でパンを買う金子五〇〇円は毎回、帰りの古本屋で消滅した。
書店の方々には大変迷惑な話だが、「新刊小説を、本屋に定期的に通って立ち読み」もしていた。

高校に入って小遣いが上がった後は、新刊小説にも手が届くようになった。この頃。ジュニア小説は社会的にメディアとして認知され、「ライトノベル(以下、ラノベ)」というジャンルが生まれた。
「漫画を読んではいけない」という縛りの中で、澁澤龍彦を読む傍らラノベも読んだ。

大学時代に入って、本屋でアルバイトをした。
※この時期に、漫画は解禁された
一年次は新刊本屋でアルバイトしていたのだが(理由はアルバイトでも本を買うと五パーセント割引だったから。現在、それが出来るかは不明)、授業が詰まっていたので月収は二万円程度だった。
二年次になり、一年次に単位を詰め込んでいた影響で、時間に余裕が生まれてきた。そして、「より時給が安い」古本屋にアルバイトを替えた。一見、間違えているロジックだが、私にとっては「いつも最新で、入れ替わりが速い新刊本屋」よりも「他人に愛されてきた『名作』が、いつまでも並んでいる」古本屋の方が心地よい空間だったからだ。古本だから社員割引(?)も「お得感」があるし、ややもすれば社員の人が「それ。ずっと売れてないから、持ってっていいよ」と言ってもらえるのも古本屋ならでは。
――人、それを「極楽」と呼ぶ。

こんな学生時代を過ごしてきた私だが、自分は「読む幸せを享受する」だけの人間だと思っていた。
ただ、親が敷いてくれたレールの上を歩く人生。
それでも、私に幸せを与えてくれる「愛すべき本」があれば、満たされた。
「図書館の司書」という選択肢は思い浮かばなかった。
「水族館のスタッフ」という選択肢も浮かばなかった(私は、こよなく水棲生物も愛していたからだ)。
ただ、「良い会社に入り、良い伴侶に巡り合い、金に不自由のない老後を過ごして欲しい」という両親(特に母親)の期待に背(そむ)かないで、どう生きていくか? の回答が「本を読む事を生きがいにする」だっただけだ。

実際に、大学では「マスコミ」を専攻していた。
「マスコミってカッコイイよね?」的な理由ではない。
自分の読解力を深めたり、「マス(大衆の巨視的な視点)における優秀な作品」と「自分が好きな作品」との違いを学びたかったからだ。
国文学を選ばなかったのは、好きじゃない文章も勉強させられる可能性と、古典文学で好きな作品が少なく「嫌いな作品を勉強」するのがイヤだったからだ。
それと、出版社という「趣味に根差した職業への憧れ」も否定しない。
だが。
実際にフタを開けてみれば、周りには「チャラ男」や「流行に敏感女子」が多くて大いに閉口した。
「マスコミ学」には、ゼミが二つしかなかった。
講義が終わって、バイト疲れでうとうとしてたら「アイツなんなの? 誰とも話さないしさ。ゼミのコンパも誘わないでいいよな?」とか聞こえてきたが、眠ったフリを続けてやり過ごした。
それでも、「ぼっち」ではなかった。
「『面白い』を楽しむパンクロッカー」と「(到底信じられない)嘘を吐くのが大好きなプロボクサー」が、友となった。
彼らも、自分が考えていた「大学」との乖離ぶりに戸惑っていたのだろう。
※「嘘を吐く」というのは社会通念上は「悪」だが、彼の嘘は荒唐無稽で発想が突飛だった。すぐに嘘だと分かるのに指摘するとキレてみせて、後日になって「嘘だよーん」と言うような人間だった。「そうと分かる嘘」は、私の中では「優しい嘘」に分類されたので楽しませてもらった(例:農家が商品開発した、「トマト大学」というトマト栽培キットのチラシを見せつつ、「俺、『トマト大学』に入るわ。この大学は辞める!」って大真面目で言っていた)

――ここで、一つの誤算が生じた。
マスコミ学は、「異常なほどにレポートが多い」ということである。
読書する時間を削られるのは、想定外だった。
私自身が、試験は「教授の私見を覚えるだけで、身に付かない」から、自分の考えを書けるレポート提出式の科目を重点的に履修していたからだ。
一年次からゼミがあり、夏休みの課題は「指定した岩波新書の五冊を読んで、四百字詰め原稿用紙で一〇〇枚以上のレポートを書け」だった。
しかも、「肉筆限定」だった。
「時代錯誤も甚だしい」と思われる諸賢もおられようが、昨今は「Wikiをコピペしてレポート提出する」時代だから、しようがないとも思う。
それだけなら余裕だったのだが、他の履修科目もレポート、レポート、レポート……。
「大学生の夏休みは長い」とはいえ、結果として一年次の夏休みに四〇〇字詰め原稿用紙で合計二〇〇枚強のレポートを手書きで書いた。
夏休み明け。
ゼミのレポートを提出したのは、私一人だった。
実は、五冊中二冊が「絶版」だったそうだ。
最初から古本屋で探し始めた私は、全冊買い揃えてしまえた訳だ。
旧漢字が頻出し旧仮名遣いが多い本だったのは、そういう理由だったのか。
でもまあ「近代社会学」の本だったので、「現代社会学」と比べて違う部分を面白みとして読めたから良しとした。

やがて、「レポートを楽しく書く方法」を自分で構築した。
章立てで書く時に、「絶対に入れる言葉」を自分に課してみた。
例えば「――だろうか? 否! 断じて否!」というフレーズを使う、という「縛り」を作る。
そうすると、どう書けば良いか?
「その本の中で、絶対に自分と価値観が違う一節を探す」しかないのだ。
鵜の目鷹の目で、その本を熟読する。
なにせ「その道のプロ」が書いた文章だ、否定材料を探すのは骨が折れる。
だが。
その作業が、レポート作成を「作業」から「面白い事」に変えてくれた。

レポート式の試験でも同じだった。
教授の著作物(教科書)に「これからはケーブルテレビが主流になっていく」と書かれている、『これからのテレビについて』というレポート試験。
私は、それを知っていてなお「CMの『キャラクター』重視のマーケットにおける、今後のテレビ番組の在り方」という答案を提出した。
※今で言えば「三太郎」シリーズや、もう少し遡れば「お父さん」等。私が試験を受けた時点は、CMキャラのはしりとして「ポッキー三姉妹」が出ていた時代
結果としてみれば「教授の持論」も「私の私見」も、二五年経った現在においてもピタリと適応している。
ちなみに、その試験の評価は「A」だった。
これで「C」評価だったら、教授が狭量だったと今更ながら言い切れる。
とにかく、シニカルに構えた学生時代だった。
すべてのレポートを、教員と全然違うアプローチで提出した。
そのほとんどが「A」評価だった。
学業に燃えて「こういう考え方はどうですか?」という訳ではなく、価値観の押し付けを嫌って自分のエゴを押し付けていた、と今になって思う。

そして。
普通に就職活動をして、普通に印刷会社の営業マンになった。
文字から離れられなかった。
でも。自分が求めている充足感は得られなかったので、九年間で退社。

今度は、R18DVD業界に「販売促進プランナー」として入社した。
最初こそ「文章が打てて、学生時代にプロの友人に頼まれてやっていた漫画原作も出来て、天国のような職場」だと思っていた。
毎晩終電でも、全然かまわなかった。
ビジネス的な制約を受けてなお、その「縛り」を楽しめた。
DTP部門五名のスタッフのうち、四人が同時退社するまでは――。

しかも。残ったのは、入って間もない新人君。
そして。三人体制だったのが、一人だけ残った販促プランナー。つまり私。
部署は、統合された。
それでも、最初は良かった。元々が総合職だったので、仕事のフローの再構築はお手の物。
無駄を省いて効率化して、上司に具申して二人で回せるようにした。
新人君も良く頑張っていてくれたし、私も彼の負担を減らすためにDTPアプリケーションの使い方を覚えた。
毎日。終電まで二人で残って、向かいのビルで一つだけ光が付いている窓の名で一人で残業している女性を見つけ、勝手に彼女の「名前」や「設定」を作ったりして、二人で笑いながら手を動かしていた。

スタッフが増員されて、一緒に頑張ってきてくれた新人君は退社した。
DTP要員としてもデザイン要員としても、自分が不要になったと感じた。
そこからは、社内で自分ができる仕事を探した。
印刷知識を使った、「コストダウン」と「安くするシステム構築」を考えて提案、実践した。
五年かけて「フルCTP化」と、提案していた「フル四色印刷化(それまでは金・銀箔や蛍光インクを足した高価な印刷方法がメインだった。私が手掛けたもので、最強だったのは『六色印刷+金箔』だ)」が実現し、DVDジャケットの印刷コストは半分以下に落とした(説得材料は、「今はネットで商品を探す時代。金箔で印刷費を倍にするのは、費用対効果が薄い」だった)。
もちろん。印刷会社にダンピング競争をさせずに、方法論と費用対効果で社長をねじ伏せた。

必ず、出入りする印刷業者には言っていた。何十社も営業にくるので、自分がされた「当て馬」見積りとかは嫌いだから正直に言った。
「『御社も、必ず儲けて』ください。『初回割引』とかをされちゃうと、ずっとその値段で発注をかけることになります。社長の意向だから、私はそれを貴方に課し続けざるを得ない立場です。その代わり、私は貴方と同じ職業に就いていましたから、矛盾点や疑問点には気付いてしまいます。アコギな手段を使ったら、仕事を出しませんよ」と。
実際に。「型抜き」するPOPで、アコギな方法を使ってきた会社があった。
「型抜き」とは、クッキーの生地を「ハート形に切り抜く」ような印刷技術だ。一回目は「ハート形」の金型を作る初期費用(複雑だと、結構高い)が発生するが、二回目以降は同じ型で抜くので、安くなるという技術。
それを。
競合見積もりで、勝ち取った会社があった。
そして、二回目の発注で見積もりが高くなっていた。
いや、厳密に言えば金型代が引かれているから、「一回目よりは安い」。
だが、明らかに単価を上げてきた。
私が「安いのだからしようがない」と発注すると思っていたのだろう。
私は、最初に『儲けてくれ』とは言ったが、これはイカサマ的営業テクニックだ。
凄く残念に、そして多少の怒りが湧いた。
私は、社長に「私のワガママですが、今回だけは高い印刷会社で印刷させてください」と懇願した。
初回より高く、もちろん二回目よりずっと高い、最初の見積もりで二番目だった会社に発注した。
もちろん、経緯を全部話して「御社は今後、そのテクニックを使わないといけない見積もりじゃないですよね?」と念を押した。
そして。倍の値段で印刷し、その業者には仕事を出さなかった。
※ポリシーがある「いい話」っぽく書いていますが、二回目に発注した会社は三回目以降に「凄く安く」なります。「金型の使用頻度と再発注回数を想定した提案書」を社長に提出したので、結果的にはマイナス分は一年以内でペイできた
年功序列ではなく実績で賞与を出す会社だったが、「君は上から三人に入ってるよ」と社長に言われたが、あまり嬉しくなかった。
その期間に副業で受けていた、「ゲーム作成」や「他社のDVDのテキスト打ち」の方が、実入りは少なかったが楽しかった。

――そして、私は空っぽになった。
新人君と二人の時期に、躍起になって「省いてきた無駄」が、私の仕事での面白みだったからだ。
しようがなかった。
「テキストはジャケットから流用」とか「余計なコンテンツを排除」という行動は、「二人で回す」には必須だった。
だが「無駄」な部分こそが「遊び心」であり、「ユーザーに伝わる部分」だと思っていたし、今でも信じている。
部署が三人になった時に「一番要らない人材」が私だ、と気付いたのだ。

実際に、病気で休んでいた休職明けに「喜多仲君には、他の部署に移ってもらう」と言われた。
また、営業職だった。うんざりした。
そして、退社した。

贅沢な趣味もなかった(敢えて言えば自転車だが、維持費は安い。そして、「食」や「金を使う娯楽」は持たなかった。一番の趣味は「ウェブ日記」だったから、コストはゼロだった)私には、いくばくかの貯金と時間だけが残された。
空虚感は留まるところを知らず、三年近くの期間を働かずに「生きる意味」について考え続けた。

そして今。
空虚感から抜け出して、こうして「note」を書いている。
社会人になってからは、(一部の時期を除いて)日記だけが居場所だった。
誰にも愛されなかったけれど、自分が愛してやまなかった戯れ言。
辛い時期には、悲しい物語を綴った。
辛い時期には、馬鹿で愚かな自分を笑い飛ばした。
辛い時期には、自分が「声を出して笑える」レベルの文章を捻り出した。

そして、ふと気付いたのだ。
(無論、「贔屓目」だと思って無視し続けてきたが)「ひょっとして、私は『文章が書ける人間』なのではないだろうか?」という、口にするのも恥ずかしい事実。
誰にも読んでもらえなかったけど、文章好きの自分が「潔し」と思えていたのだから、書けているのではないか?
自問自答を続けた。
「自分が出来ることなら、誰だって出来る」と思っていたが、できない(或いは得意でない)人間もいるのではないか? と思うようになってきた。

そういった訳で、次の記事は「文章の書き方」について書こうと思う。
当たり前のことしか書けないけれど、「それすら分からない人は一定数いる」と信じて書いてみます。

――え! ここまで読んだんですか? よくもまあ……。本当は「文章の書き方」までを続けて記事にしたかったのですが、自分語りが長すぎたので分割しました。この記事(本来の前半部分)は、誰の心にも届かない自虐の歴史記事ですからね。まあ、興味があるならば次の記事も読んでください)

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