「ポリアモリー」を正しく定義づけよう(として失敗)

「LGBT」という言葉をご存じでしょうか?
L=レズビアン
G=ゲイ
B=バイセクシャル
T=トランスセクシャル
の略で、つまり該当する「性的マイノリティ」の方々の事を差します。

※今では「LGBTQ+」というらしいが、正確な定義付けを知らないので、ここでは割愛させていただきます。「Q(多分、自分のジェンダーが分からない?)」の方々と「+(多分、その他の性的マイノリティ)」の方々、申し訳ございません。

そして、五年くらい前(だっけ?)に来日したムーヴメントがあります。
それが、多数性愛者を差す、「ポリアモリー」という性的マイノリティを差す言葉です。
まだまだ、マイナーかも知れませんね。
因みに反対語は「モノガミー(単数性愛者)」です。

お恥ずかしながら。
知人の女性から「私は『ポリアモリー』かも知れない」という相談を受ける時まで、「ポリアモリー」という単語を知りませんでした。
書籍を購入して、相談してくれた彼女の心情を理解しようと努めました。
※その書籍の著者は女性のモノガミーで、ポリー(「ポリアモリーな人」の略称)として生きていく人たちへのインタビューなどを含めて理論を知ろうとする内容でしたので、私にも取っつきやすかったです

内容の序盤で出てきたインタビューで、ある女性ポリーのエピソードが語られていました。
「中高生時代から、『一番』好きな異性が複数いて、普通の事だと思っていた。バスケ部の先輩も『一番』好きだったけど、クラスにいるサッカー部の男子も『一番』好きだった。なんで、みんな一人の異性にしか注目しないのだろう? と、当時は不思議に思っていた」というようなエピソードです。
この話には「『一番』が二人いる」というパラドックスが発生しています。
でもまあ、「同率一位」という言葉がある限りは、完全には否定できませんよね?
このパラドックスを使って論破するのは、無理だと思います。

また。
基本理念として、こうも語られています。
「あなたが一人の子供を授かったとします。その時に子供に与える愛情を、仮に100%と数価化したとしましょう。二人目の子供が生まれた時に、愛情は2で割って各50%になるでしょうか? それぞれの子供に100%の愛情を注ぎますよね? それは、取りも直さず人間の愛情は『無限大』であるという証拠である」という理屈です。
私のようなロジカル型の人間としては、「事象に対して無効な数値化」が行われているので、論破されないですけどね。
ただ。「心の動き」の話ですので、論理ではなく例え話なんでしょう。

正直なことを言えば、私自身はモノガミーですので「ちょっと、無理かな?」と思います。
女性が一人な場合だけの話じゃなくて、私がモテモテイケメンで絶倫だったとしても無理だと思います。
「複数の相手を、性的な意味で『平等』に愛する」というのは、中々にして難題だからです。
例えば。
諸兄は、「一夫多妻制国家の大富豪である男性」を羨ましく思いますか?
若い男性なら、素直に「羨ましい」と思うのではないでしょうか?
ですが。
彼らには、「多くの妻を『平等に愛する』義務」が課せられています。
つまり、「一番最近に結婚した巨乳美人だけを、贔屓の愛妾にすることは出来ない」んです。
最初に結婚した「高齢になった妻」にも、初々しい若い巨乳妻へと同等の愛情を注がなければいけないのです。
だから。
妻が多ければ多いほど、大富豪の男性は早逝する傾向があるそうです。
まあ、私は前職の業界柄。R18DVD男優の苦悩を見てきたから、そう思うのかも知れませんね。

彼(女)たちの生態(失礼)は、実に興味深いです。
一番、ポリーたちが心を砕くことは「互いの嫉妬に、折り合いを付ける」ことだそうです。
つまり、女性(A子さん)が一人で男性(B氏とC氏)が二人の場合。
A子さんが、B氏と温泉旅行に行ったとします。
C氏に秘密にしていたら、単なるセックスフレンドとの浮気旅行と同じになってしまいます。
だから。A子さんはC氏に、「B氏と泊りがけで遊びに行ってくる」と宣言します。
C氏は、嫉妬心を抱いてしまうでしょう。
それは、大脳旧皮質の深層意識に刷り込まれた「本能」ですからコントロールしようがない。
それを「お互いが納得できるように、とことん『嫉妬という感情』をケアする作業」こそが、ポリーたちのポリアモリーたる所以なようです。

「モノガミー」な私としては、疑問に思ってしまうことがあります。
それは、B氏とC氏を「すべて同じ価値観の中で『一番』愛しているのか?」ということです。
例えば。「両者ともに『一番』好き」ではあるが、「本当に同じ部分が好きなのか?」ということです。
実際にデートをしたり身体を重ねてみたりして、「本当に『同じ』一番なのか?」という話です。
「B氏は癒し系で話術が巧みで、一緒にいて楽しい」。
「C氏は美形で、身体の相性が抜群」だったとしたら、それはA子さんが「一人で私を満足させる完璧な男性はいないから、三人ならば最高の男女関係が成立する」というエゴなのではないのか? という疑問です。
すべてが同じ人間(仮説として、完璧に同じ行動原理や価値観を持つ一卵性双生児)を同時に好きになるんだったら理解できます。
ですが、すべての人間は違う特性を持っています。
だとすれば、「B氏とC氏を、すべて同じ意味で『一番』である」ことはあり得ないと思ってしまうのです。
私には理解できない世界ですので、あくまで「論理的な推測」でしかありませんけどね。
もっとも。
「『生来からの資質』として三人ともポリーだった三人カップル」がいるのかどうか? というところまで言及すると、ややこしくなります。
でもね。
そうするとポリーたちが大切にしている「『嫉妬』のケアは必要が無い」はずなんです。

すると。
「ポリー」なのはA子さんだけで、B氏かC氏(或いは両方)は「元々は『モノガミー』だったけど、A子さんの説得(エゴ)によって『疑似ポリー(造語)』になった」可能性が出てきます。
もしくは、B氏かC氏(或いは両者)が最初から「割り切った男女関係」を許容している場合です。
この場合――。
B氏は「普段やデート用」で、C氏は「肉体関係を含めた観賞用」。
もしくは、A子さんが「B氏とC氏の共通のセックスフレンドである」と、ならないのか?

しかし、厳然として「複数交際をオープンにした上で、お互いをケアする」という健全でフェアな人間関係を構築しようとしている、という事実が存在します。
そこで、新たな疑問が発生するのです。

「妻公認の浮気」と、どう違うのだろうか? ということです。
妻が公認している以上、ケアは必要ないはずですよね?
彼(また、彼の妻や愛人)は、ポリアモリーと呼べるのでしょうか?
彼の妻が「諦めている」場合は、完全な夫のエゴですよね? 真摯に向き合ってないから。
別のアプローチで「いやいや。妻と愛人の関係性(面識)が無いから、彼らはポリーという定義から外れる」ということになるのでしょうか?
実は。
昔の会社関連で付き合いがあった男性が、まさに「妻と愛人が互いに面識があって、妻は夫が愛人との関係を容認している」という状況でした。
これはポリアモリーではないでしょうか?
しかし――。
彼は、古女房より若い愛人がお気に入りらしく「嫁はいいんだよ、ほっときゃ」と、愛人宅に通い詰めているような男性でした。
そして。
妻は、そんな夫を黙認していたそうです。
ちなみに彼は金持ちですから、「亭主元気で留守がいい」状態だったのかも知れません。
そうすると妻の立場は、「疑似ポリー状態」と言えるのではないでしょうか?

ここまで思考が進むと、ある可能性が示唆されてきます。
「そもそも。ポリアモリー関係を『構築しようとしている人間』が、モノガミー二人を巻き込んでいるのではないか?」という可能性です。
ところがどっこい。
「ポリーにはバイセクシャルが多い」という話も聞くから、これ又ややこしい話になってきます。
先の夫婦の例で言えば、実は「妻と愛人もレズビアンで、肉体関係を持っている」という可能性です。
想定される状況が複雑すぎて、しかも私が理解できない概念だから可能性を虱潰しにしていくしかないのが、もどかしいですね。

結局。理解できないことを「論理的に説明する」ことは不可能なので、どうしても反対側の意見に偏ってしまう。
困ったものです。

まず、大前提として。
「複数性愛者の存在」については、異論は挟まない。
百歩譲って「三人以上の男女が、すべて先天的にポリーである」可能性まで認めましょう。
でも、その場合は「嫉妬のケアは必要ない」上に、「三人とも、好きになった異性と誰とでも寝る」ケースと区別がつくのだろうか?
起こっている事象が同じだから、判別が難しい。

恐らく。
反証として「全員がポリーの場合は、色情狂と見なされてもしようがない」が、「我々は健全にケアし合っている!」という意見が出るでしょう。
しかし「嫉妬のケア」が必要な時点で、「誰か一人(ないし二人)は、ポリアモリーの被害者」になってしまわないのか?
「本人が納得してるんだからOK」というのだったら、先述した愛人宅に入り浸る夫もポリーであるということにならないか?

むしろ私だったら、ケアされるよりも「隠しておいて欲しかった」と思ってしまう気がします。
「観測されていない時点では、半分浮気されていて半分浮気されていない。観測することによって、浮気は『事実になる』」という、みんな大好き「シュレディンガーの猫」メソッドです。
そっちの方が、私だったら気楽だと思います。
「それはフェアじゃないから、私はカミングアウトするのだ!」という言葉こそがエゴである、と思ってしまいます。
それは、後ろめたいことをしている自分を「定義付けされた」綺麗な言葉でラッピングしているだけで、隠してもらっておいた方が全然いい。
いやまあ。
ポリーの方々は、「その人と付き合う前に意思確認を取る」からいいのでしょうか?
でも。
後天的に自分がポリーだと気付いた場合は、どう定義付けするのでしょう?
「しようがなかった」の一言で済まされるのでしょうか?

――私の結論としては「ポリアモリー」という単語は、用語として不完全だと思っています。
「人間」を差す言葉にするには、「ケアされる人間」がいる以上、その人はポリアモリーに、惚れた弱みで洗脳された疑似ポリーでしかない。
そして、「状態」を差すならば「多数性愛に対して最適化されたライフスタイル」という意味になる。
※日本で啓蒙されているきのコさんの著書の副題に「ポリアモリーという生き方」とあるので、多数性愛者とライフスタイル両方を意味するようです

つまり。ライフスタイルとして「ポリアモリー状態」を認識しても、やはり『多数性愛者という仕掛け人』がいないと成立しない。
それでは。
「人間」をポリー、「状態」をポリアモリーと仮に定義してみる。
すると。ポリーという「人種」が、ポリアモリーという「状態」を作り出して疑似ポリーを量産して、「多人数と付き合う」というエゴを通す、という結論になってしまう。
全員が生来の多数性愛者である場合は、「フリーセックス主義者たちの集まり」になってしまう。

うー。
できるだけ中立の立場を貫こうと思ったのですが、私のチンケなクルミ大の脳みそでは「理解できないことは、否定する」という証明を試みてしまうのです。
あまりにも複合要素が多すぎるため、一つのケースだけを説明することは可能でしょうが、巨視的に説明できなければ意味がない。
恐らくですが――。
当人たちも「多数性愛者」という共通項を持ちつつ、「『私のポリアモリー』が他のポリーたち全体に適用される訳ではない」と思っているのではないでしょうか?
これだけ雑然と「人間」であり、かつ「状態」であるいうと情報が入り乱れてくると全員が同じ認識を持っているとは思えません。
「光は、『粒子』であり、かつ『波動』という側面も持つ」的な、「調べてみたらそうなったんだから、現実として受け止めろ」ということになりますよね。
まったくもって情けない話です。
つまり。
もっと体系だった用語の細分化がなされない限り、私は当初に述べた「女性の相談相手」という土俵に立つ資格すらないということになります。

以上。
証明失敗。

――いつか。逆に「ポリアモリー」という言葉を自分の都合のいい解釈で曲解する人たちへの警告の記事を書かせてもらおうと思う。

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