自分が持っている「萌え」という曖昧模糊とした概念を、ロジカルに語る

外国語なのに、日本語っぽい響きを感じる言葉。
アコンカグヤ(エキセントリック解釈の昔話SF風味)。
マサチューセッツ(江戸時代の地名)。
ナスダック(子供向けディフォルメ野菜戦闘アニメ。主人公は当然、茄子)。
ダウ平均株価(「拿有」とか漢字をあてそう)。
ユビキタス(ハモは、ゆびきたすと大変美味である)。
ヒポポタマス(魔法少女のマスコットキャラ、「ヒポポ」と「タマス」の合体完全体)。
バラライカ(墨を吐かずに、大きな音を発して敵を威嚇する奇妙な生態を持つイカ)。
どうも。
この程度しかパッと思いつけない、自分の語彙にガッカリしているキタナカです。
ヒポポ「カオルちゃんは、野菜が苦手ポポからなぁ」
タマス「好き嫌いは駄目タマ、ママに怒られちゃうタマよ~?」

古典SF小説である、E.E.スミス著「宇宙のスカイラーク」のワンシーン。
とある有人惑星に訪れる、スカイラーク号の乗組員。
そこの「太陽」は、光線のスペクトルを歪める。
金髪で白い肌の女性乗組員が、漆黒の髪・紫色の肌に見える。
あまりの事態に、パニックに陥る乗員たち。
そして、異星人とのファーストコンタクト。
見た目は人間そのものだが、緑や紫色肌の異星人に迎えられる。
女性乗組員は異星人の女性に、こう言われる。
「貴方の金髪は美しいわ、天使のよう。肌も透き通るように白いわね」
もちろん、身に付けた自動翻訳機に依るところが大きいだろう。
しかし。
ある種の可能性を示唆しているのは、作者の意図するところだろう。
そう、「自分が観ている世界が他人と同じ」とは限らない。
ある人は、自分を含めた人間を「ワニ人間」として見ているかも知れない。
※ただし、「ワニの美醜や表情、言語解釈その他まで全てが他の人間と同じ」という認識が大前提となる
又ある人は、「リンゴは赤い」という共通認識の中で、「蛍光ピンクを『赤』だと思っている」可能性。
詳しくは、「クオリア」という言葉が語っているので、検索して読んでみてください。

さて。
「萌え」という言葉は、理解できる・できないが綺麗に別れる言葉なんだろうな? と思う。
そもそも。
言葉にして説明するのが、非常に難しい概念である。
俺は理解してるつもりだが、果たして他人と同じ心の動きを差して使っているか?
自信が無い…。
大辞泉によれば、「ある物や人に対して持つ、一方的で強い愛着心、情熱、欲望などの気持ち。必ずしも恋愛感情を意味するものではない。」だそうであるが、少なくとも自分にとっての「それ」は違うように思う。

ひょっとして、自分だけが間違った「萌え」を感じている可能性も否定できない。
だが、形容し難い感情であることは自明であり、それは「萌え」を知る者たちの共通認識だ。
果たして、どういった心の動きなのか?
拙い語彙を振り絞って、考えてみようと思う。

あえて類語を探すとするなら「**が面白すぎて生きるのが辛い」だと、俺は思っている。
現実と虚構のギャップ。
登場女性キャラ全員に好かれる虚構と、全然モテない現実。
空を自由に駆け巡る虚構と、飛べない現実。
好きな女性と愛を確かめ合ってEDロールが流れる虚構と、その後も続く日常という現実。
ゆる~い高校生活が延々と続く虚構と、受験勉強や部活に追われる現実。
「ときめきメモリアル」な虚構と、「麻雀ばっかの、ときめかないメモリアル」だった現実。

つまり、理想的な状況(勿論そう描いている訳だが)に、架空の追体験をする訳だ。
そして、その虚構と現実のギャップに心が苦しくなる。
小野寺浩二著「熱血!ロリータ番長(なんて題名だ)」の言葉を借りるなら。
「ワシを、この中に入れてくれ~!」(コンシューマ用ゲーム機を頭に打ち付けながら)なのである。

その時に、受け手は仮想現実としての喪失感を得る。
ヴァーチャルな喪失感。
しかも、本人は何を失ったか分からない(分かりたくない)から、名状し難い心境になる。
これが、俺にとっての「萌え」た時の心の動きであるように思う。

少年時代。
真っ赤な夕焼けを見た時の、胸を締め付けられるような切なさ。
好きな女子が引っ越す時、何を言えば良いか分からず黙ってた後味の悪さ。
田舎の清冽な青空と、いつまでも続くと思えた夏休み。
未知の領域だった「ガケ山」の向こうへの冒険と、その達成感。
親の財布から金を抜いた時のドキドキ感と、バレた時の絶望感。
友人と些細なことでケンカになった苦しさと、仲直りした安堵感。
悪友と秘密の空き地で行なったイタズラと、バレたら…という焦燥感。
得たものと失ったもの。
あの頃に経験した鮮烈な感情は、成長と共に鈍磨していく。

「初めて」を積み重ねるという行為。
「経験」を得て「初めて」を喪失する行為を繰り返していく、それが成長。
経験により想像力は豊かになり、未知の領域は狭まっていく。
そう。
少年時代に感じた強い感情は、初体験への高揚感であり(「初めて」の)喪失感でもある。
それは「体得」と「喪失」の記憶。

経験を積み重ねた人間は、(一般的な)喪失感をも消化できる余裕を持つように思う。
「経験」が「喪失」体験の類型を探し、その事例に近しい感情を対応策として取る。
そのような判例を用いた対処に、大きな心の動きは無い。
これが「大人の余裕」というものなのであろう。
ただし…不意を突かれた場合を除いては、である――。

ダラダラと書いてきたが、つまりはこういうことだ。
子供の頃に得た大きな心の動きは、「体得」と「喪失」の記憶だ。
大人は得ることができない、成長の記憶。
一方。
大人が心の準備、即ち「受け身」を取れない喪失感を与えるのが「萌え」なのだと。
処理する方法を与えられない心は、大きく震える。
少年時代に、初めて自転車に乗れたときの興奮のような。
ノコギリクワガタを初めてゲットした、あの夏の早朝のような。
そのような原体験としての喪失感を大人に与えてくれるのが、「萌え」なのである

きっと――。
それが、私が「萌え」を求めてやまない原因なのだと思う。

…。
…と。
いうような、もっともらしい詭弁を弄してですよ?
萌え漫画やゲームやアニメを持っていることを正当化してみせる。
※一部の作品は、家人にはマジでヒかれていますとも。えぇ
これが「経験を積んだ大人の、老獪な手管」というものだと思うのです。
そして、チムコ。(下ネタも入れないと、エッチい女子高生読者が離れると聞きました)

――どんなに真面目そうに書いても、嘘しか書かない。これが俺イズムなのです。結果、無駄に長い駄文になったとしても後悔はしない(よいこのやくそく、その16)。

タメになるコトは書けていませんが、サポートいただけたら励みになります。よろしくお願い申し上げます。