天才と(ピー)は紙一重

■はじめに――
私は「文章が大好き」であることは、絶対に譲れない事実だ。
その反面、「文章(或いは言語)の限界」に絶望してもいる。
同じ事象でも、文体や表現によって受け取る側の印象は変わる。
固い文章で書けば「この人は、思慮深い人なのだな」と思われ、方法論を尽くして親しみやすい文体で書けば、「こいつ、バッカで~」と親しみやすい人間に思ってもらえる。
「私は、自己分析すると『馬鹿』という人間にカテゴライズされるようだ」

「俺ってさ、ぶっちゃけバカな訳。アニメキャラと結婚できないって気付いたの、昨日だしwww」
「同じ内容でも、相手に与える印象が変わる」という例文です。

まず。
私の駄文を読む前に、pha氏の著作「持たない幸福論」を一読する事をオススメします。
これが、一つの試金石になる。
この文章を「一〇〇パーセント自分の中に取り込めた人」は、私の(古今、そして未来の)記事を読む必要はないと考えています。
読む人や立場によって、評価が分かれる著作である。
ある人は「鳴呼。これは私の人生のバイブルだ」と思われるだろう。
うん。多分、それは貴方の勘違いだ(断言はしないが)。
ある人は帯のコピーを読んで、その怠惰さに嫌悪感を抱くかも知れない。
だが、その本は捨てない方がいい。「自分が働けなくなった時」や「老後」に読み返すと「気付き」を得られる本だと思うから。
「人間が、どれほど(無意識下で形成された)『自分の価値観』から抜け出すことが困難か」という陳腐な言葉でしか伝えられない試金石なのだ。
もう、本当に無理! 絶っ対に無理!
体験した私が言ってるんだから、間違いない。

私の記事は、この著作の平易な文章からも読み取り辛かった(若しくは読み取れなかった)「気付き」を、少しでも、一人にでも与えたいと思って書いている哲学的な文章です。

ステマでは無い。それで、私が得をすることなど何一つない。
そもそも。
私が「社畜だった時代」に何十回も家人に勧められて、忌避し続けてきた書籍である。
帯に書いてある「働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない」や「史上最強の脱力系幸福論。」という言葉を、素直に受け取るキャパシティが自分には無かった。
だが、実際の内容は哲学的である。
※よくよく考えてみれば、「哲学」という言葉は人間に構えさせてしまう。因みに「人生哲学」という言葉は、「押し付けがましい感」が強いので私は苦手である。まったくもって、私は面倒な人間ですよね……
きっと。彼の「伝えるためには、まず読んでもらわないと」という考えに基づく、キャッチーなコピー文だったのだろうと愚考する――。
当時の自分は――。
「京大卒のニートだって? いや。それ全然、自慢にならないし」と思っていたし、軽蔑すらしていたかも知れない。
電気グルーヴの歌詞を借りれば、「まだまだ、やっぱりお前は子供だ。全然まったく解ってないよ」と嫌悪する側の人間だった。
諸賢が同じ感想を持たれたならば、「当時の私」と同じだ。
「金に執着しない人間が世間に増えれば、経済は破綻する」という真理を正しく捉えている人間だ。正しいバランス感覚を持っている。
彼と等しく「真理」を捉えている。
これも言語の限界だが、「真実は一つではない」という論理は破綻しないが、「『真理』が複数存在する」というのは、少し不自然に感じはしないだろうか? 私だけだろうか。
私は似た意味の単語でも、「(自分的に)正しい単語」をチョイスすることに手間を惜しまない。
この記事の中でも「諸賢」と「皆さん」を使い分けている。通常は統一するので文章としてはNG行為だろうが、私は敢えて使い分ける。
読み手である方々の言語感覚がマジョリティであることは重々承知である。
でも。その部分は自分に課してしまっているので、修正する気はサラサラ無いし、したら私ではなくなってしまう。
さて。
もう。皆さんも前置きに飽き飽きされてきた頃合いでしょうから、表題についての本文を書いてみようと思います。

私は、天才である。
自虐的な文章を書いたり、自分の文章を好もしく思った相手でも、「自分が唾棄すべき人間」と思ったらディスったりして、「スキ」されることが殆ど無くなったが、その事実は揺るぐことはない。
「新世界の神」だとか、「ナルシスト」的な意味合いで言っている訳でもない。厳然たる事実を述べているだけだ。

「そもそも論」で言えば、みんな天才なのだ。
だが、それを「オブラートで包んで」、「生クリームでデコレーション」したような「ナンバ-ワンじゃなくても、君はオンリーワン」みたいなキレイ事で表現する手合いは苦手だ。
これは、私のエゴだ。大衆をミスリーディングするような手法を、私が「潔し」とできない狭量さの顕(あらわ)れだ。
※「この間も書いてた」と思われようが、私は伝わるまで叫び続けます
学歴なんて意味は無い。
私は一応、最高学府まで卒業しているが、そんな事実は意味が無い。
ここにいるのは、ただのオッサンだ。
「はあ? 匿名性を担保にして、学歴詐称してんじゃねーよ」と、皆さんは思われる事だろう。
私は、卒業証書を証拠として公開したりもしない。そんなものは、単なる紙っ切れでしかない。
どうしても「他人をブランド付けして、マウントを取りたがる」人間の思惑に乗りたくない、という私のエゴが理由だ。
詭弁上等! 私は「パンク世界の住人」だから、罵倒すら自分を動かす原動力にしてみせる。

ただし。
正確に言えば、私は「形而上学的に天才」ではあるが、「形而下学的にはキチガイ」である。
意味合いが変わってしまうが、誰にでも分かり易い日本語で書こう。
「自分を天才だと言っているキチガイ」、それが私である。
「その天才性が絶望的に(生きる為に必要な)金銭と、かけ離れた才能」とも言える。
※実際に「使い道が無い天才」というニュアンスのことを言われたことがある。言われて嬉しかったし、実際その通りだと思う――
又、こうも言おう。
「みんな。自分の天才性に気付けずに、苦しそうだなあ」とも。
一応。先進国と言われているのに「自殺率が高い」理由は何故だか考えてみて欲しい。
みんなが欲しがるのは、「自己承認欲求」と「金銭」ばかり。
そんな世の中に疑問を抱けないように、日本全体が歪んでいるからだ。
※伝わらないなあ。これじゃ、単に「宗教家気取りの無所属政治家候補」だ

最近の私の記事には、「気付き」という言葉が散見されると思う。
これが「人間(事象)をブランディングしないで、素直に向き合う」為の、たった一つの冴えたやり方なのである。
私は不幸にも「凡愚」な人間であったため、人生の折り返し地点を過ぎて、ようやく「気付き」を得られた。
※言い訳をさせていただけるならば。金持ちでもない癖に、学業的意味でエリートな家庭環境に育ち「認知」が歪んでしまったのだと思う
いや。
「気付けないまま死んでいく人間」が大多数だろうから、「幸せ」なのかも知れない。
少なくとも、今はそう思っている。

「悟り」という高尚な代物とは違う。
ただ単に「あ、そっか」って程度のことである。
この「簡単にして平凡な『気付き』を得られない人間が、どれだけ多いか」を私は見てきた。
将来を悲観する高校生。
腕がリスカ痕で一杯の(腕が洗濯板のようにデコボコになっている)女性。
恒久的とは思えないムーブメントで金持ちになって、「偽りの自信」を得て満悦している社長さん。
裏カジノでダンサーとして働くハズだったのに、騙されてギャンブルで多額の借金を背負わされ、街娼をさせられている外国人女性。
その女性の弱みに付け込み、ビジネスマンをしながら「ヒモ生活」を送っていた自分――。

実は。
私は叙事的なことに関しては、「実際に自分の身に起きたこと」をメインに書いてきたし、書いている。
「事実は小説より奇なり」という人生を歩んできている。
※「そうと分からない」ようにフェイクは織り交ぜるので、「真相は闇の中」ですけどね
もしくは、突然書きたくなった備忘録的なもの。
実際に緩~く認識していたものを意味付けするための、深く掘り下げる論理的思考実験。
後は「(実際に起こった事象は醜いけど)こうあって欲しかった楽しい自分」を妄想して、その事実を打ち消したかったのが、過去の「蛤日記」のハッシュタグが付いている文章群だ。
「悪ふざけを書いただけ」としか思えないでしょう?
それが、私の「生存戦略」であり「生命線」だったのだ。
もちろん。荒唐無稽な内容もあるが、それはメタファーとして用いているに過ぎない。
それよりなにより、「自分の弱さ」を曝け出す勇気が持てなかっただけだ。

性欲が昂進している時期には、女性と肉体関係も結んだ。
私は「対人恐怖症」に端を発する「自己臭恐怖症」で「醜形恐怖症」だ。
鏡を見るのすら怖い。

特に「臭い」に関しては、不安が高じて「信頼のおける女性」に聞いてみるくらい怖かった。
「いや、ビックリするほど体臭無いね。汗も臭くないから羨ましい。足だけは、どうしようもなく納豆臭いけどね」と笑われて以降、気にしないようにしている。

性欲に支配されるのが嫌で、一日に十回以上の自慰行為を自分に課していた時期もあった。
会った当日にホテルに女性と行ったりすると、「この女(ひと)は一体、私の何を好きになったんだろう?」と悩んで吐きそうになった。
一回だけ。ネットで知り合ってチャットをするようになり、二年近く。本音を語り合えるまでになった女性と、肉体関係を結んだことがある。
会うまで「お互いの顔も素性」も知らなかったが、少なくとも嘔吐感は感じずに済み、初めて付き合っていない女性と一緒に朝を迎えることが出来た。
その女性は結婚し、今は母親として頑張って生きている。
当時の感謝を伝えることすら迷惑だから、心で彼女の幸せを願ってやまない。

今は既に、齢を重ねて単なるオッサンになってるし、当時も決して所謂「美形」では無かったように思うし、実際にそうだった。
少しだけ他の男性より優位に立てるとすれば、「相手が自分に求めているものを察知し、できるだけそれに近い『擬態』を行なえる」ことだけだった。
「面白い」を求められれば、現在の彼女が面白いと思うであろう話をしたし、「共感して欲しい」ならば共感してみせた。
こと「面白い」は、方法論と知識でカバー出来るので、得意分野だった。
心は全然、動いていないにも関わらずに、だ。
天地神明にかけて誓うが、「自分をブランド付けして評価される」ような破廉恥な自己アピールはしなかった。というか出来なかった。
「素人童貞」という言葉はネガティブに使われるが、私は「風俗の方が『契約に基づく行為』だから、気が楽」だった。それでも風俗嬢には最大限の敬意を払い、彼女たちが不快だと思う言動は慎むのは当たり前だった。自分の容姿が「不快」だった場合も想定はするが、「契約」という言葉で自分を納得させた。

家人には、よく「その露悪趣味、やめた方がいいよ」と言われる。
それは、言葉による自傷行為だからだ。
分かってはいるが、私は戦い続けたいのだ。
姿かたちも、名前すらない「何か」と。
まさに「お前は、いったい何と戦っているんだ?」状態。
実際に「自分が如何にモテてきたかって自慢かよ!」と、脳内の「想定読者」が私を責める。
「違う! そんなんじゃない!」と私は反論を試みるが、「モテ自慢じゃないとしたって『風俗=金持ち自慢&美人の若い娘』ってことじゃないか!」と言われて撃沈する。
若い女性が赤裸々に自分の性を綴ると、男性読者は「興味本位」か「女性の心理を読み解くテキスト」として読む人が多いだろう。
私の場合は、感情移入してしまい「女性になって読んでいる」気分になる。
同じ秘め事を男性が綴ると、「自慢」「卑屈」「ウソ」と思われるのは何故だろう?
それは取りも直さず、「男は全裸になって笑いを取れる」が「女性が全裸になっても笑いは取れない」に通じるものがあるのかも知れない。
無意識の内に「自分は高潔な人間であるから、女性の裸を見ても欲情しちゃいけない」というバイアスがかかり、笑えないのだろうか……。

一五年以上も前に自分が書いた文章に、こんなことが書いてあった。

「強い」と「弱い」を縦軸にする。
「武器にする」と「防具にする」を横軸にする。
そうすると、四つの象限が出来る(四種類に分類が出来る)。
「強い」を「武器にする」人間は最強だ。
「強い」を「防具にする」人間は臆病だ。
「弱い」を「武器にする」人間は卑怯だが、強い心を持っている。
「弱い」を「防具にする」人間は最弱だ。
つまり、「強かろうが弱かろうが、それを武器に出来る人間が強い」

先にも書いた通り、私は「自分の弱さ」を曝け出す勇気が持てなかった。
よって、「最弱」に分類される。
「怖い」のだ。
「自分が『構ってちゃん』だと思われる可能性」
「自分が憐れまれる(逆差別される)可能性」
「自分が女々しい人間だと看破される可能性」
「自分が苦悩している人間と思われてしまう可能性」
「今まで『面白い人』だと思ってたのに、偏屈なキチガイだと気付かれて、その人が自分から離れていってしまう可能性」
「自分の『イドの怪物』が、どれだけ醜いかを見破られる可能性」
それは、取りも直さず「本当の自分を、自身が認められない」ということ。

「note」を使い始めたのは「自分の文章を読み返すのに適したプラットフォームだったから」というのが正直なところだ。
私が「note」で「斬って捨ててきた」著者たちと変わらない不純な動機だ。
同族嫌悪的に、高い情報素材を売る人間を叩いていただけだ。
※読まれた人なら分かると思うが、著作者を特定させない最大限の注意は払ってきたつもりではある
そんな自分を反省して。「自分が間違えている可能性」も考慮して、反論したい方々の為にTwitterのアカウントも公開した。

「note」は正に「玉石混交の記事」たちの集まりだ。
その中で、素晴らしい人(文章)たちにも出会えたのも僥倖だった。
「最初は自暴的な記事を書いていたが、過去から順々に自分の弱さと向き合っていき、『今があるのは、昔の私がいたから』という結論に達した(ここまでは、現在の私も至れた)。ついには今、自分が直面して逃れられない厳然たる事実に対しても立ち向かっていけるようになった人」
「優秀な記事を、手間をかけて見つけ出し紹介する人」
「秀作をコンスタントに書き続けている人」
何より「飾らない文章」は素晴らしい、という「気付き」を与えられた。

一々「スキ」してくれた人が、外部サイトに誘導するような人だった時に落ち込んでいた自分が馬鹿らしくなった。
読まれた数や「スキ」されたことに一喜一憂するのは、「プロを目指す人たち」がやることだ。気にしてたら、やっていられない。
そう考えたら、憑き物が落ちた。
貯金が尽きるのが先か、私が生き方を見つける方が先か。
日和らない。「イヤだ(言い換えれば、我慢しなければ達成しえない)」と思うことは、絶対にしない。
それで生き延びてやる。
文字通り、命を懸けた真剣勝負だ。
絶対に勝つ! 売ったケンカだ、引っ込みがつかない。

そうして……。
結果として、私は「天才」になったのである。

「そう」と気付けていない天才(同胞)たちに、祝福のあらんことを――。

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