🪢女を愛しすぎた男たち🪢

   それほどまでに愛しすぎること
   がなかったら、彼の不幸も、あ
   るいは、避けることができたの
   かもしれない。

一人の男の話ではない。私が直接に知るだけでも、30人は下らない。彼らは彼女たちを愛し尽くし、はからずも、燃焼したのだった。

共通して男たちは金銭的に豊かであり、学歴や職業上の経歴も上流階層に属しており、不倫のような道ならぬ恋ではなく、結婚も視野に入る形での愛だったと思う。

彼女たちも未婚の若い女性たちであったが、顧みるとき、20代という、その若さゆえの自由なしなやかさが、わがまま、気まぐれ、感傷、思い込み、理不尽さ・・・・などの未熟さが「愛という男女の駆け引き」には禍いしたのかもしれない。

年長者からの眼で見るかぎり、結婚などの社会制度的な制約を伴う関係を前提とする未婚男女の間では、性愛と連なる「愛」への深入りなど、むしろ避けた間柄である方が望ましいように思う。
単なる肉体関係のSEXと、情念の昂まりに呑み込まれざるを得ない「性愛」の世界とでは雲泥の差、大袈裟ではなく天と地の差が広がっている。まだ、情念性の未熟な若い女性ではに愛の真意に触れることは難しい。
大抵の20代女性たちは、「SEXの火遊び」と「性愛」の区別がついておらず、恋愛相手の男が、SEXの関係を超え、性愛的な情念の愛を迫るとき、「わたしは、そんな女じゃない」と、愛のベッドから逃げてしまう。

未婚の女性が、恋と愛の境い目で錯覚しているのは、性愛の「出産的な解釈」と、「倒錯的なまでのオーガズム」の差異である。
幸福な結婚は前者であり、「性愛の絶対的意味」などという観念に染まるSEXの情知は、ともすれば「情痴的倒錯の愛」への深入りすることになる。

私の知ってた男たちは、優れた知性にも恵まれていたが、性的な身体にも「溢れる情念」を求めよとしており、結婚→出産→家庭への道のりとしてよりも、性→性愛←性の循環する男女問性愛の昂まりへと向かう濃密な世界を夢見ていたのだった。

金銭的に豊かであり、社会的地位も高く、知的情緒にも豊かではあったが、ひとつだけ「欠けていた経験」が、若い女性の相矛盾するリアリティへの理解だった。
愛の仄かな幸福への夢を抱く、その他方で計算する「醒めたリアリティ」こそ、多くの女性たちの生命力であり、生活の知恵なのだが、このことが「ロマンティシズムを求めて止まぬ」一部の男とは断絶する。

だが、彼ら男たちは諦めないので、持てる財力を駆使して20代、30代を過ごし、交遊した女性の数も増えるに従い、随分と性的経験も増え、自分自身も洗練されてくる。
そして40代に入るころ、彼ら自身の本意とは違うが、誰が見ても一流のダンディズムを身につけた「モテる男」へと成長し、若い女性たちを軽く手玉にとり、流麗な既婚夫人たちと不倫の浮き名も流すことになる。

彼らが愛の闘いに使った金銭の額もさることながら、その過程で知性の骨身に沁み込ませてきた「男女差の桎梏」ともいうべき矛盾の悲劇を巡る物語を、幾多となく私は聞いてきた。

「妥協、それしかないことは分かっているのですが、そこなんですよ」その妥協が諦めや我慢のような惨めさに陥るとするなら、やはり、ムリでしょね、女性との結婚は。

まあ、そうなんでしょうね、と私は答えるる÷が、けっして、次の言葉は表に出さない。
「あなたのおっしゃることを、そっり裏返してみれば、女性たちも言われるでしようー結婚なんて、あなた、女にとっては我慢、我慢の連続の上に、結局は諦めなんでよ、ねえ。そのこと、若いころ、もっとよく知ってればねえ・・と愚痴られるのだか、彼女たちにも「その先」がない。

86まで生きてくると、いろいろありますよ、男女の間には・・・と、白雲斎、曰く。


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