‼️‼️凄いぜ読書・2万冊‼️

前回、1万冊の読書家が辿る「無の境地」を訪ねてみたが、どうだろう、倍の2万冊のレベルを覗いてみるという趣向は。
なにせ2万冊の本を読みこなすには、読書に要する時間だけでなく、通常の人間では不可能な「速読脳×記憶脳」という恐るべき天才脳が要求されるからだ。 
しかし、それだけじゃない。
前回では、この問題を端折ったが、本を読むということは、そこで書かれた「他の関連」を訪ねなければならず、たとえればだ、ある本の中で「モーツァルト」についての記述があるとしたら、否が応でも「モーツァルトを聴かなければならず」、さらに「モーツァルトとは何者かの情報も必要になる。
万事がこのよに、「本」とは無数の多様なネットワークから成り立ってもいるのだから、「万の本を読むとは「10万の何か」とも接することとなる。お分かりかな?

したがって、我が伯雲斎(白雲斎とは別の意味での人格)は、若者たちには「単純な動機で本などに手をふれてはいかんーそんな時間があるなら、男なら女の子にキスでも迫るべきだし、女の子なら「一にも二にも避妊の何たるか」を学び、いかなることがあろうと「望まぬ妊娠を避ける術」を知らなければならないと諭す。
本を読むなどという人生の余分は、ごく普通に生きることの極意を学び取った後での話だと、申し伝える。 
なによりも、中途半端な読書体験ほど危険なことはなく、就職に失敗し、仕事では挫折し、恋愛には恵まれず、それに「自殺者もまた中途半端な本読み人」に多くみられはる。なにも私は本を害毒視しているわけではなく、真反対に「人生85歳に至って」2万冊の読書などという我が体験を交えて話しかけておるのだから間違えないでほしい。

じゃが、だ。
我が読書人生体験を顧みるとき、あまりにも多くの秀才たちが、読書の毒に冒され、挙句、折角の才能を失った事例を見てきた。
「本にさえ手を付けなければ」幸福な結婚と豊かな財にも恵まれた人生を享受できたはずなのに、、、と悔やまれてならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・か、のよに、人生の危機とも接したリスクを負いながらも、本を読む、読み続ける人は絶えず西暦1900年代ー20世紀は明け暮れたかが、21世紀に入ると事情が異なり始め、本及び読書環境を巡る社会体系それ自体に変動的な地滑り現象が生じたのだった。
簡約すれば、「本を読まない男たちからの叛乱」であり、考えようによれば「健全なる事態」でもあったが、・・・÷う〜ん、文字言語体系の大衆化とでも言えばよいのか、世界中の人々が「情報民主化の波」に乗ってしまったのである。

本当というのが「何が本当なのか」、そこのところの概念定義が「全く、役に立たななった」社会へと変動することで、20世紀までに「培われてきた」文字的知的体系か「総崩れ」してしまったのだ。
昨日までは「100冊の難解な本を読んだことを前提にして」はじめて会話や座談の始まる知的体系が一挙に無効となるとき、それまでの知識の優劣は「大学を優等生で出るための手段的機能」でしかなくなり、卒業して就職すれば、一瞬のうちに無益な無駄となる。

知的思考と情報がテクノロジーの利用効率へと変動するとき、知的情報の「底」は浅くならざるをえない。
文字言語の内容から、その利用効率へと価値軸が回転するとき、「本を読むことの意味と価値」も一変することになる・・・・・とい時代でも、なお、「読書2万冊」に、いったい、何の価値があるのかーいやいや、そこなんだよね、人々が間違え、狼狽えているのは。

ひとつの問いは、「人間が変わらず、テクノロジーだけが変わるとき」ーじゃ、いったい何が欠落するのでしょうか?
もちろん、「人間であることの何か」ですよ。

つまり、この問題を語るためにも「読書・2万冊」の意味が欠かせなくなるのです、、、、、が、ー今回は、ここまでといたしましょう。




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