🔥2万冊の本を読む・Ⅱ🔥

人生85年間を生きて、今年は86年目を生きている私のような年齢の人間にとって「本」とは、1に文学、小説、2に哲学、社会学、3に政治、経済であり、故に文字なので、当然「外国語の修得が必要となり、英語、フランス語、ドイツ語の3カ国語で「原書」に接することも必須条件となる。10代から語学学習は欠かせない。
しかし、それだけでは物足りず、私の場合は「精神分析」および代数学の延長でもある現代数学にまで足を突っ込み、主に「群論」に深入りする。
日本人には馴染みのない分野だが、精神分析の世界は「医学」でもあり、「哲学」からのアプローチも可能であり、群論、環論、多様体論との読みもありうるので、現代数学は欠かせない。

つまり、「本を読むこと」が万冊に届くには、一専門分野だけではなく、雑学の極限までを覚悟しなければならず、本代や収納場所のような物質的な難題も生じてくる。
だが、これは万冊を読むための予備段階に過ぎない。本は読むのに時間がかかる。万冊ともなれば、普通、30年、2万冊だと60年なので、20歳の青年が2万冊を読み終えるころは80歳の年齢もさることながら、世の中も様変わりしている。
故に、たいていは「浦島太郎」さながら、読書三昧の竜宮城から出た途端、完璧な爺いとも相成るわけだ。

大抵の場合、読み終えた2万冊の本から得た知識の大半は、時代遅れとなり、役立たず、ただの「世間からズレた変わり者」となる。
間違いなく、そうなる・・・・・・が、、、ですが・・・だ、こうした算術じみた幼稚な結果にはならないところに、現代数学的な次元変換の妙味があるのですよ。魔術・・・・そう、魔術の常識を遥かに凌駕した異次元の世界が待っているのです。

大事なことは、「本2万冊読む」とは、その過程ではなく、「読み終えたもの・の・結果」なのであり、現実に即して言えば「仕事しながら、恋もし、楽しく遊び、お金も稼ぎ」ーそれでなおかつ45〜50歳あたりまでには2万冊、あるいは、それ以上の本を読んできた人のことでもあるということなのだ。40歳でも2万冊突破は不可能ではない。

一般には「500ページの本」を読むのに要する時間は10〜15時間程度だが、世の中には「10時間で30〜50冊の本」を理解することができる人々がいる。
それほど珍しいことではなく、私の知る限りでも100人は下らない。

理由は簡単で、「書物、本というものの性質」を熟知しさえすれば、部屋に50冊の本を並べ、その部分を回し読みすれば、完璧に短時間で数十冊の内容を把握することができる。
外国の大学では、課題として一週間後の授業までに数十冊の課題本を読まされるので、若い時から「並列して複数の本を読む訓練」ができている。

したがって、莫大な数の本=情報を短時間で、かつ、正確に内容を把握しながら読み取る作業は困難ではなく、その作業に慣れれば慣れるほど、累積的に多数の本から、複雑な情報を汲み取ることができるのた。 
その結果、溢れすぎるほど情報の溢れる現代社会でも、情報に飲まれることなく、逆に、上手に情報を活用することの達人となる。
外国人には多いのに、日本人では少ないのも、素早く情報を汲み取る能力に多大な差があるからだと思う。

さらに「速読術」とでもいえばよいか。400ページ程度の本なら30分もかからない。それでいて、二日間かけて読んだ人と対等に内容を語り合うことができる。むしろ、二日間かかった人よりも、より詳しく、正確に理解しているのだ。

出版され、世の中に出ている書物には、ある共通した特徴があり、必ずと言ってもよいほど「既に、誰かによって書かれた本の内容に影響されたもの」か圧倒的に多いので、目次と中身を「ペラペラ」と捲るだけで、もう読み終えたに等しい場合が多いのだ。
小説などは、その典型で10分もあれば、書評が書ける。全編を隈なく読了しなければならないような天才クラスの本など、何年かに数冊出るかどうか、なので、そんな書に出逢えば、逆に、普通の人より遥かに時間をかけて、じっくり読ませていただきます。

本当に、時間をかけて読みたいような本は、ここ20年来、まったく世に出なくなった。
最大の理由が出版編集者の能力不足であり、彼らは天才クラスの作品価値を見抜けなくなっている。万冊を読みこなすことのできないサラリーマン的人物の目に留まる作品など、10分、20分で読み捨てるものにすぎない。

肝心の版元から骨のある書が生まれないかぎり、万冊を読むまでの過程で骨抜きとなり、結果として、今の時代では「2万冊を読む行為それ自体」もまた頓挫せざるを得ないといことに・な・・ら・・ざ・・・・る・・・・・を

・・・・・・ということて、話を締めることにいたしましよう。   白雲斎

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