🧠🧠本を読む・1万冊🧠🧠

1日1冊、30年で1万冊を超える。60歳までに、このラインを越えれば「読書家」と自称してもよいだろう。
ジャンルは問わない。専門書ばかりでもよいし、マンガだけでも構わない。映画ばかり1万本見たひとも読書家に類するだろう。
そんな強者たちが集まって座談の場を持つと、確実に世界が変わる。
まず、常識などという柵(しがらみ)が取れる。人々が普段、日常の暮らしの中で信じているものの囲いが崩れ、全く異質の形相が顔を出す。

読書家たちの集まりなので、文字、言語の練達者たちなのだが、座談の時間と共に文字の意味が消え、言葉と言葉の格闘のなかで、言葉の果てに浮かんでくる無、そう。
一種の「無」が漂い現れてくるのだ。
しかし、無といっても、「何もないことの無」ではない。「ありすぎることを経て現れ来る無」なのであって、一度でも、その「無」を体得れば、読み、憶え、学習した知の全てが瞬時にして無意味となる「無の境地」でもあるのだ。
あるいは、「無」でさえも無益な「空」のさすらう(流離う)無の実感かもしれない。
万巻の書が、もはや用済みとなり、書や文字に接しなくても、文字から、映像から得られるはずの全てが、既に「我が身体と共にある」ものへと変容してゆく様を実感する。

1万冊余の書の完読という行為の果てに来るものの異様さは、現実の生涯で万巻を一言一句読み、さらに、それを超越するものでしかありえない「空無の襲来」なのであるが、どうやら、読書に限らず「万を得て、然るのち、無を得るが如し」の世界観は、様々な世界の形相を持つようである。

有り余り、もはや使いきれない金額を得たとき、人によっては「やり切れない絶望感に陥る場合」があるようだ。
「きみに呉れてやろうと思うが、貰ってくれるか?」
ある大富豪の老人から頼まれたのだが、当時50代の私でも生涯使いきれる額ではない。
それに、老人の所得手段それ自体が表沙汰にはできない種類でもあったので、1兆円にも達する闇資金を貰ったとところで、私にも使いようがない、
しかし、彼には身寄りもなく、死期も迫っていたので、仕方なく預かることにし、「さて、どのように処分するか」ー実際、手にしてみると「ドルで100億」、札束の山を焼いて捨てるのもひと苦労だ。
表だって何かに寄付するわけにもいかない金額でもあったので、結局は、一瞬の時も「誰かの手に留まることなく」世界の金融市場を巡り廻る投機資金の闇に組み込むシステムを考案した。
その後も、数人の富豪たちから依頼された大金も同じ手口で「ただ、謎の資金として時価300兆ドルのデリバティブ金融市場を流動し続けている」という次第であ。

ただ、金額の場合は、哲学や芸術を語る言語世界とは異なり、「無の彼岸」というような「気化の妙味」へと昇華させることが出来ない。
私自身も仕事上、数兆ドル(300兆円〜500兆円)といった投機マネーを扱ってきたが、金額の無とは、ただ「何もかも無くなるだけのこと」であって、「かつて、オレは1000億円を持っていた」と吹聴しても、単なる虚しさでしかなく、「無」と「虚」の差は歴然として埋め難いものがある。  
金銭もまた、常識とは桁違いの巨億を手にし、扱ってきてはじめて分かる「虚の意味」も潜んでいるのである。

   以上、無を以って生きる白雲斎

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