あゝ、高性能カメラの悲哀

この問題は、支離滅裂なくらいに個人的、恣意的な意見が多様なので、あまり深追いはせず、要点のみに絞ります。
「なぜ、今の時代に、精巧で、重いカメラが必要なのか?」という疑問。

もはや現代では、高性能なカメラが必要な被写体も、芸術表現の意味も無くなっている。
スマホ記録で充分な時代環境が広がっており、カメラ撮影を通じて何か「意味の深さ」を求める必要性も無いはずだ。
既に、世界からは「深さの概念」だけでなく、「意味の探究」さえも消滅しはじめており、その端的な現象が「絵画芸術」の衰退である。

どのよに理屈を捻くり返しても芸術とテクノロジーは真逆の関係にあり、肉体と鋼鉄のように、融合するのは無理だ。
写真メディアには、ことの出発点から対極的な離反生が潜んでおり、写真は芸術の情報面を担う機能であって、その主体となるには無理があった。写真は何かの複製を伝達する副次的機能には優れていたので、専ら、芸術作品の情報伝達に特化することで発展してきたが、現在でも情報自体が芸術性を表象することはできず、仮に優れた風景を写しても、あくまでも「綺麗に撮れた富士山の写真」の枠からは出ることはできないのた。

ただ、唯一、写真に可能な芸術表現に残された対象があるとすれば「女性の裸体」であり、画家たちの描く裸体像に匹敵して「芸術作品」への昇華もありえたのだ。

ところか、今日現代、裸体表象にまつわる問題自体が、代数学的多様体であるかのように、縦、横、高さの三次元レベルを超越し、斜め、奥行き、乗数の絡む多次元的複雑な問題へともつれてしまった。

つまり、ジェンダー、フェミニズムなどの社会問題、性犯罪、ホモ、レズのシェクシャリティ、性的同一性、対象ー非対象の差別、さらにハラスメントなどのモラル関連も組み込まれるので、写真家と写真の関係だけでは、もはや手の打ちようがないのだ。

最近モデルのカメラ機能をフル活用しさえすれば、あるいは、芸術的な画期的イノベーションの「写真芸術」誕生さえ、ありえたかもしれないが、事態は、それほど単純ではない。

かくして、高性能のカメラは、副次的情報伝達の機能にしか用立てることができない・・・・・という要約でありまする。

      以上   山本白雲斎

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